あの男がブラジルから帰って来ました!その男の名は田中マルクス闘莉王(以降、闘莉王選手と記載)。元サッカー日本代表DF。2015年シーズンで名古屋グランパスを退団し、故郷のブラジルに帰国してしまい、少しずつ忘れられつつある存在でした。
先週、成績不振に陥っている名古屋グランパスは小倉隆史監督の休養を発表しました。事実上の解任で、ボスコ・ジュロブスキー・アシスタントコーチが監督代行として指揮を執る事になりました。ジュロブスキー監督代行は就任の記者会見で闘莉王選手の復帰を発表したのです。
闘莉王選手の復帰を好意的に受け入れているサッカーファンの皆さんも多いことと思います。闘将と呼ばれた闘莉王選手のこれまでの歩みをご紹介しましょう。
by 扉のとびら
ブラジル生まれの日系三世
闘莉王選手は顔立ちは日本人ですが、日系二世のブラジル人お父さんとイタリア系ブラジル人のお母さんの間に、1981年日系三世のブラジル人として生まれました。広島県出身の御爺さんと富山県出身の御婆さんが夫婦でブラジルに渡った事が、闘莉王選手のご家族がブラジル人で生活をスタートした理由です。
闘莉王選手は幼少期から運動神経の良い優秀な子供だったそうです。更に「困っている子を見ると放っておけない性格」の優しい少年だったと小学校の先生は回顧されています。男気のある文武両道に秀でた男子だったとは、後年Jリーグで活躍していた当時を彷彿とさせるエピソードです。
Jリーガーのほとんどは小学生の時からサッカーを始めていますが、闘莉王選手は高校生になるまで本格的にサッカーをしていませんでした。近所に引越してきた人が開いたサッカー教室に9歳の時から通っていたそうですが、サッカーよりも水泳が得意で、中学校ではバレーボール部に入部します。
又文武両道に優れていた証になるエピソードとして、中学生の時にブラジル数学オリンピックに出場して全国大会まで進んでいるという事実もあります。
日系人ながらブラジル人だった事、文武両道に優れていた事、高校に入るまで本格的にサッカーをしていなかった事など、Jリーガーになった選手の中で、極めて特徴的な生い立ちを持った選手と言えます。
ブラジルに住む闘莉王の家族by ニュース2ちゃんねる
渋谷幕張高校への留学で日本へ
高校生になった闘莉王選手は本格的にサッカーを始めます。ブラジルサンパウロ州のミラソウFCというサッカークラブに入ります。
たまたま渋谷幕張高校サッカー部監督の宗像マルコス望氏がミラソウFCに視察に来られている時に、闘莉王選手に目が留まり、渋谷幕張高校に留学生として招聘することになりました。
日本語が全くわからなかった高校生の闘莉王選手は来日し、渋谷幕張高校のサッカー部員としての生活を開始しました。元々攻撃的なポジションの選手でしたが、宗像監督からDFにコンバートされて、ディフェンダーとしての闘莉王選手のサッカー人生がリスタートしました。
自身も日系二世である宗像監督がブラジルに選手を視察しに来ていた事が、闘莉王選手の人生を大きく日本へと向かわせる結果となりました。
元々文武両道に優れた闘莉王選手は、渋谷幕張高校サッカー部で才能を開花させて、チームは初の千葉県代表として全国高校サッカー選手権に出場し、個人としては千葉県選抜チームの一員として全国優勝を果たします。
今では想像もつきませんが、来日した当初は全く日本語がわからず、最初の一年間はとても辛い日本での生活だったそうです。しかし、持ち前の努力を惜しまない性格で、すぐにに日本での生活にも馴染み、有望な若手サッカー選手としての頭角を現していました。
by 渋谷幕張高校サッカー部
御爺さんの故郷広島でプロサッカー選手に
全国レベルで高校生サッカー選手として注目を浴び始めていた闘莉王選手は、高校卒業と同時にサンフレッチェ広島に入団します。広島は御爺さんの出身地で、御爺さんの勧めがあっての選択だったそうです。この時点での国籍はブラジルのままでした。
闘莉王選手入団の翌年、サンフレッチェ広島はJ2に降格してしまいました。J1復帰が至上命題になり、新たな外国人選手によるチーム力強化の為に、クラブはブラジル国籍だった闘莉王選手を2003年にJ2の水戸ホーリーホックにレンタル移籍させます。
闘莉王選手は水戸ホーリーホックに移籍するや否や、ディフェンダーとしての才能だけでなく、攻撃能力も備えた選手として、才能の片鱗を発散させ始めました。移籍した年のシーズンで、ディフェンダーながら10ゴールという得点成績を残しているのです。
元々攻撃的な選手だった事もありますが、小さい時から水泳やバレーボールが得意だった様に、運動神経の高い選手であることの証明と言えます。
by J2まとめブログ
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