日本で育ち、世界中でプレー。カナダ代表・中島ファラン一生選手インタビュー。

インタビュー

日本で育ち、世界中でサッカーをプレーするカナダ代表・中島ファラン一生選手のインタビューを掲載します。今回Qolyさんとの恊働掲載でインタビューを扱わせて頂きます。日本で育ち、ユースシンガポール代表に選出された彼の波乱の人生を紹介致します。

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中島ファラン一生1

東京ヴェルディユース時代のお話をお聞かせください。

ユース時代は結構辛い思いばかりでしたね。10歳から11歳はロンドンに引っ越して、クリスタルパレスのユースチームに入団しました。あっちのユースシステムが、「教育」を受けることが殆どないんです。サッカーの練習やトップチームにいる選手の靴磨きがユースの生活でした。トップチームに上がる選手もそういないので、将来へのリスクが非常に大きかったんです。そこで、日本のユースはサッカーと教育がしっかりしていると父から教えもらいました。悩んだ末に東京ヴェルディのユースに戻りました(ロンドンへ引っ越す前に所属していた)。戻った時には日本語を殆ど忘れていて、言葉が通じなくてとても辛かったです。家族に会えなかったり、イギリスにいる彼女とも別れたりもしましたけど、サッカーが大好きだったんで頑張りましたよ。

2年間はヴェルディィの寮から横浜のインターナショナルスクールに通う生活を始めました。インターナショナルスクールは他の高校と違って、金額も高いんで親の負担(家も売って支援をした)やプレッシャーも半端なかったです。学業と練習を必死になってやりました。そんな苦しい生活をしている内に2~3ヶ月したら日本語が喋られるようになってきました。でも、カルチャーショックがあってね。日本の先輩後輩関係には結構困りました。先輩にタックルされたんで、やり返したら先輩が切れたんですよ。俺もイングランドのメンタリティーだったんで、喧嘩に発展しました。その後、シャワー浴び終わる前に110円投げつけてきて、「おい、ファラン!コーラ買ってこいよ!」って言われたんですね。それで、俺も「ふざけんじゃねぇ!」と切れてまた喧嘩になったんですよ。イングランドだとピッチではライバル、チェンジルームでは友達って切り替えが普通なんですね。その後のユース生活は親友の菅野孝憲(現京都)が俺を支えてくれたりと、凄く助けられましたね。

俺のプロ生活で一番モチベーションとなった事件がありました。練習中に俺がパスミスしたんですよ。そしたら、菊原志郎さんから「外人帰れ」って言われたんです。みんな苦労していたと思うんですけど、俺も外国から頑張ってやってましたね。だけど、その言葉で俺はもっと強くなろうって覚悟したんです。俺はスタメンではなかった時期もあって、高3の頃には外されることもありました。その当時(ユース指導者)の都並さんや志郎(菊原)さん、岸野さんも俺のこと認めてくれなかった気持ちが強かったです。それが俺にとって物凄いモチベーションなったんですよ。いつか日本に戻って、皆を認めさせられるような選手になりたいって強く思うようになりました。

アルビレックス新潟に入団してから、シンガポールアルビレックス新潟やシンガポールU-21代表に選出されたお話をお聞かせください。

最後のユースカップで、主力の怪我もあって俺にチャンスがきました。(ユースカップでは)トップスコア(チーム内)で結果も残せました。その大会を見ていた反町さん(当時新潟監督)と都並さんのお陰で、アルビレックス新潟からオファーが来ました。プロ1年目はチャンスがなかったんですが、1年契約だったのとプロで活躍する夢もあったから死ぬ気で頑張りましたね。2年目にシンガポールアルビレックスの話がきました。シンガポールでは、若手中心にチームを作ってくださいとシンガポール側が言ってたんで、俺はそれに選ばれたんですね。俺はサテライトで14試合出るより、海外のプロリーグで経験を積みたいと強く思ったんですよ。お客さんが入っているスタジアムの中で、プレッシャーを感じながらサッカーをしたかったんです。だから、話が来た時には行かせてくれと即決しました。他の若手選手は、日本から出たくない選手が多かったんですよね。当時のシンガポールリーグはJリーグと比べたら、レベルが低かったんですよ。だけどレベルとか関係なくて、俺はサッカーやるのが大好きだから、色んなプレーを感じたくて決めたんです。その経験ってプレジャー(喜び)だと常に思っているんです。実際は、シンガポール行くかチームを退団するかという感じで選択肢はなかったんですけどね(笑)

初年度は、9人(プロ)の若手選手を中心にJAPANサッカーカレッジのメンバーとでチーム作る感じでやりました。そのシーズンは末岡龍二さんと一緒に2トップ組んで試合に出ていました。俺はリーグ得点王に選ばれて末さん(末岡)は僕より1~2点少なかったんですけど、結果残したのに「ファランはまだ若いからシンガポールで経験つんでこい」と言われて新潟には戻れませんでした。それで、末さんが新潟でJ1のピッチに立っていて、俺は立てなかったことが凄く悔しかったんですよ。その次の年も俺は得点王になって、若手最優秀選手賞も取ったんですよ。元々新潟はシンガポールに送って、選手を育成するのが狙いだったんですよ。俺はこれ以上結果残せないじゃないですか(笑)得点王も若手最優秀選手賞も獲ったんですから。やっとトップチームからチャンスがくるんじゃないかなと思ったんだけど、反町さんは見るだけでポジティヴな反応はなかったんです。そん時は、本当に悔しくて「何で俺を認めないんだ!」って思いましたよ。

その間、シンガポール対日本のオリンピックチームとの対戦があったんですよ。日本はカレン・ロバートらがいて、シンガポールは俺と山田将司が選ばれて戦うことになったんですよ。一応練習試合だから、パスポートなくても代表がオファーすれば出れたんですよ。2年間その国のリーグでプレーしていれば、その国の国籍を貰えるんです(現在のルールでは、5年間)。相手は日本だから、滅茶苦茶燃えましたね。このチャンスで新潟に響くかなって感じでね。その試合では2点ゴール決めて、日本を倒した上でMOMに選ばれたんですよ。だけど、俺以外にもいい日本人は沢山いると言われて相手にされなかったんです。日本人指導者が俺を認めてくれなかったことが、とても悔しくて辛かった。そこで、思ったのが「Prove them wrong」ですね。監督らの見る目が間違っていると証明したくなりました。今思えば日本の監督達、俺に悔しさを与えてくれてマジでありがとうって思っていますよ。それから、シンガポール(U-23)代表監督キム・ポールセンがデンマークへ帰ることになりました。そこで、俺をデンマークに連れて帰りたいと言われて、俺はデンマークへ渡りました。

中島ファラン一生2 シンガポール時代、和久井秀俊選手(現在エストニア1部ノーメ・カリュ所属)との2ショット

キム・ポールセンに見出されてからデンマークで大活躍をしました。デンマークでの経験などをお聞かせください。

俺は二部のクラブ(ヴェイレBK)に途中加入しました(シンガポールリーグ終了後に入団)。ヴェイレは二部で昇格争いするチームで、6ヶ月だけ下のリーグで頑張ってスーパーリーガ(デンマーク1部)に行くためのいいチャレンジだと思ってプレーしました。ヴェイレは過去に多くのタイトルを獲ったチームだったのと、デンマークはスカンジナビアでも最高のリーグなんで、ここで成長するのはありだと考えたわけです。ヴェイレはキム・ポールセン監督になってからパスサッカーをするチームになったので、凄くやりやすかったです。21歳で入団してから、2部リーグ優勝とクラブの年間最優秀選手賞にも選ばれました。俺の中では、短い間にやっと認めてくれたなと思いましたね。22歳で迎えたスーパーリーガの挑戦は、かなり厳しかったです。試合でも勝てないことが多かったんですが、少しずつ結果は残していきました。でも、結果は最下位になってチームは降格しちゃいました。シーズン終了後に、新しい監督も入ってきてチームも変わっていきました。そこでFCノアシェランからオファーがあって、契約が1年残っていたけどヴェイレの降格もあったから4年契約で移籍しました。

ノアシェランは契約前から11番をくれることを約束してくれました。前に11番を着ていた選手はチーム内得点王でコペンハーゲンに移籍した選手だったから、期待とプレッシャーがすごかったです。最初の1年半は俺にとって凄くいいシーズンでした。ノアシェランではUEFAカップに出たり、オリンピアコス(ギリシャ)とも試合しましたね。

中島ファラン一生3
ノアシェラン在籍時の一生選手

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