日本一のまま消滅した横浜フリューゲルス
by Number Web
かつて、Jリーグに横浜フリューゲルスという非常に強いチームがあったことを、覚えているサッカーファンも多いことでしょう。
1999年元旦、チームカラーと同じ真っ青に染まった空の下で、第78回天皇杯の優勝を飾り、日本一のまま消滅した伝説のクラブです。
消滅の経緯
by Web Sportiva
1998年10月29日、突然に発覚した横浜フリューゲルスの経営難によるチームの消滅。スポンサー企業の一つ佐藤工業が経営不振により撤退を表明。
もう一つのスポンサー企業であった全日空も赤字に陥っており、単独ではクラブ経営が不可能であったことで、横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)のスポンサー企業である日産自動車と協議のうえ、マリノスが主導権を持つ吸収合併が発表されました。
フリューゲルスは主導権を持たないため、事実上の消滅となったのです。
フリューゲルスに所属していた選手たちへも事前説明はなく、吸収合併先が同じく横浜市に本拠地を置くライバルチームであったこともあり、選手やサポーターからは大きな反感を買うことに。
サポーターをはじめ、主力選手であった山口素弘氏や永井秀樹氏、楢崎正剛選手など全選手が街頭に立ち、合併撤回を求めた署名活動に参加することもありました。
62万人を超える署名が集まりましたが、クラブ運営側は決定事項とし、12月2日に両クラブ合併の調印式が行われました。
一つのJリーグのクラブが消滅するというニュースは、当時連日にわたり新聞やニュース番組で取り上げられ、世間に大きな衝撃を与えました。
第78回天皇杯
by LAUGHY
吸収合併が発覚した後、強いチームであることを証明しようと、リーグ戦で一度も負けることなく勝ち続けた横浜フリューゲルス。そして、合併劇が収まらない中、第78回天皇杯が開幕します。
リーグ戦終了後の第3回戦から参戦するフリューゲルスは、負ければ敗退のノックアウト方式の大会で、負ければチーム消滅という状況の中での戦いとなりました。
準々決勝でジュビロ磐田、準決勝で鹿島アントラーズと対戦。当時、Jリーグの中で圧倒的な強さを持つクラブに勝利。そして、迎えた1999年元旦の決勝戦。
場所は国立競技場。奇しくも対戦相手は、1993年のJリーグ開幕戦と同じ清水エスパルスでした。
5万人ものサポーターが見守る最後の試合。前半13分にエスパルスに先制を許すも、前半終了間際にFW久保山由清選手(当時)が同点弾を挙げると、後半に入り72分にFW吉田孝行選手(当時)が勝ち越し点を挙げます。
そのまま試合は終了し、フリューゲルスは2-1で勝利。優勝カップを掲げて有終の美を飾りました。
最後まで勝利にこだわる不屈の魂は、現代のJリーグで活躍する2人のレジェンドに受け継がれています。
MF・遠藤保仁選手
by GAMBA OSAKA
遠藤保仁(えんどう・やすひと)選手
1980年1月28日生まれ
鹿児島県出身
178㎝/75㎏
利き足:右足
歴代所属チーム:鹿児島実業高校→横浜フリューゲルス→京都パープルサンガ→ガンバ大阪
フリューゲルス最後のルーキー
Jリーグ開幕から、多くの名プレーヤーを輩出したフリューゲルス。
三浦淳宏氏や前園真聖氏など日本代表でも活躍をした選手が在籍した中で、遠藤選手はフリューゲルスが期待するルーキーとして、1998年、鹿児島実業高校から横浜フリューゲルスに入団。
その実力は早々に見い出され、開幕節の横浜マリノス戦でプロデビューを果たします。プロ1年目でリーグ戦16試合の出場。
同年に開催されたアジアユース選手権ではU-19日本代表として準優勝に大きく貢献する活躍を見せました。
プロ選手として順調な滑り出しに思えた1年目。しかし、10月に発覚したフリューゲルスの消滅で所属クラブを失うことになります。
遠藤選手は、同期入団の新人選手とともに京都パープルサンガ(現・京都サンガFC)に移籍することに。発覚後、チームは怒涛の9連勝で天皇杯優勝を飾り、日本サッカーの歴史に名を刻んだまま消滅を迎えました。
ACL優勝、3冠王…西の横綱・G大阪の立役者
by Web Sportiva
2000年シーズンに京都がJ2へ降格となったため、2001年に現在所属するガンバ大阪に移籍。2002年、監督に就任した西野朗氏の下で、攻撃的サッカーの中心選手として活躍。2003年に自身初のベストイレブンに選出されました。そして、2005年にJ1リーグ優勝に大きく貢献します。
また、2008年にはACLチャンピオンズリーグ優勝を飾りました。現在では、西の強豪ガンバ大阪の中心選手として欠かせない存在となっています。
個人では、2009年にアジア年間最優秀選手賞を獲得。国内のみならず、世界から注目をされる遠藤選手。記憶にも新しいのは、昨季のガンバ大阪が達成した3冠王。
リーグ序盤は苦戦が見られましたが、終盤に向けて粘り強さを見せつけ、圧倒的な追い上げでタイトルを奪取した姿は、どこかフリューゲルスの強さと重なる部分があったようにも思えます。
GK・楢崎正剛選手
by SOCCER KING
楢崎正剛(ならざき・せいごう)選手
1976年4月15日生まれ
奈良県出身
187㎝/80㎏
利き足:右足
歴代所属チーム:奈良育英高校→横浜フリューゲルス→名古屋グランパス
プロ1年目で正GKとなった、フリューゲルス時代
1995年、奈良育英高校から横浜フリューゲルスに入団。当時正GKだった森敦彦選手が長期出場停止処分を受けたため、プロ1年目で正GKとして出場。
翌シーズンは、開幕節から6試合連続無失点のJリーグ記録を樹立。ベストイレブンに選ばれるなどの活躍を見せました。
1998年に開催されたW杯フランス大会では、初出場の日本代表メンバーに選出されています。
同年10月、シーズン限りでチームが消滅することが発表されると、天皇杯優勝までの9連勝に守護神として大きく貢献。最後の一日まで、フリューゲルスのゴールを守り続けました。
名古屋で出場を続けることの意味
by SOCCER KING
1999年、横浜フリューゲルスの消滅により名古屋グランパスに移籍。楢崎選手は2000年からチームのキャプテンを務め、4度のベストイレブンに選ばれるなどの活躍を見せています(名古屋移籍後)。
日本代表では、フランスW杯に続き2002年W杯日韓共催大会、2006年W杯ドイツ大会、2010年W杯南アフリカ大会の日本代表メンバーに選ばれ、日韓共催大会では正GKとして日本代表のベスト16入りに大きく貢献しました。
そして、2015年10月3日に行われたJ1リーグ2ステージ第13節柏レイソル戦で先発出場。プロ21年目でJ1通算600試合出場を達成する、前人未到の快挙を達成しました。
名古屋グランパスでは16年間、ゴールを守り続ける楢崎選手。名古屋から移籍しない理由は、横浜フリューゲルスを風化させないためとのこと。
移籍しない限り、Jリーグで配られるスタメン表の前所属チーム欄が‘横浜フリューゲルス’と掲載され続けることで、忘れられないためとしています。
日本代表のゴールを10年以上にわたり守り続け、Jリーグで偉業を達成したレジェンドのプロとしての原点は、伝説のクラブ・横浜フリューゲルスにあるように思えます。
SOURCE : フットボールチャンネル