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お帰り関根貴大選手!勝手知ったる埼玉スタジアム2002で暴れまわって!!

扇ガ谷 道房

2019/07/11 11:55

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NEWS

2019年6月28日、浦和レッズから移籍選手のプレスリリースがありました。ベルギーのシント・トロイデンVVでプレーしたMF関根貴大選手が、ドイツのFCインゴルシュタット04から浦和レッズに完全移籍するという内容でした。
関根選手は元浦和レッズの生え抜きだった選手。いわば復帰移籍という事になりました。
ドイツ、ベルギーで1年ずつ所属したものの、思い描いた成果は出せず仕舞いの海外移籍でした。しかし、まだ若干24歳。勝手知ったる古巣のクラブで、思う存分暴れまわって欲しいものです。関根選手の略歴と、海外での2年間を振り返ります。

原口元気選手の背番号を背負った選手

  
関根選手は、海外移籍するまでの間、浦和レッズジュニアユースからトップチームへ昇格した、根っからの浦和レッズ生え抜き選手の一人でした。
関根選手同様に生え抜き選手でトップチームで活躍し、海外移籍した先輩選手には現在ハノーファー96所属の原口元気選手という存在がありました。プレイスタイルとポジションの違いこそあれ、両者の生い立ちはとても似ているのです。
原口選手が背負っていた24番という背番号を、関根選手は引継ぎ、そして海外クラブへの移籍と、原口選手の後を追う様に、浦和レッズから巣立って行きました。
  
筆者の既著「ブンデスリーガ2部のFCインゴルシュタット04に移籍する関根貴大選手と移籍先クラブ」に、生い立ちから移籍先の記事をまとめてありますので、ご覧下さい。

急降下していたチームからの離脱

  
関根選手初の海外移籍が浦和レッズからプレス・リリースされたのが2017年8月6日のことでした。
  
折りしも、2012年から5年半の長きの間浦和レッズの監督を務めたミハイロ・ペトロヴィッチ監督が、数日前の6月30日に電撃交代になったばかりというタイミングでした。
  
2016年には年間最多勝ち点を上げ、実質的にリーグ優勝を果たしていたと言ってもおかしくない程、ペトロヴィッチ監督の浦和レッズとしては、最強のチームを作り上げた筈の翌年でした。(この年は2リーグ制でチャンピオンシップに破れ準優勝だった)
  
そのチームの右サイドアタッカーとして、埼玉スタジアム2002を沸かせていた関根選手の移籍は、急激に順位を落とし初めていたチーム事情としても、サポーターの感情としても、失いたくない選手であり、大きな痛手でした。
  
ですから本人としても心苦しい気持ちがあっただろうことは想像するに難く無いのですが、前任の背番号24原口選手からの言葉が、最後の決心に繋がったと漏らしていました。
  
「元気君からは、シンプルに『おまえは行きたいのか行きたくないのか』ということを言われました。チームの状況もありましたが、自分の気持ちに素直になって、本当に行きたいと思ったので、それが一番大きかったと思います」
  
所属クラブの切実な状態と、夢であった海外クラブからのオファーという決心し難い状況下、慣れ親しんだ埼玉スタジアム2002のピッチから、かねてより夢であった海外で活躍する道を選択したのでした。 
   

FCインゴルシュタット04でのデビューは第3節

  
念願の海外移籍先は、ドイツ・ブンデスリーガ2部のFCインゴルシュタット04。関根選手が移籍した2シーズン前に初めて2部から1部に昇格したのですが、2シーズンで再び2部に降格してしまい、関根選手が移籍した時は、降格したシーズンがスタートしたばかりのタイミングでした。
  
移籍2週間後の8月20日、第3節のSSVヤーン・レーゲンスブルク戦でようやく初めての海外デビューを果たします。後半途中から中盤の右という、浦和レッズでも慣れ親しんだポジションでした。然しながら、前線右サイドに張り出して、ドリブル突破でボックス内に進入するという、浦和レッズで得意とした攻撃参加でチームに貢献することはできませんでした。
  
チームに合流して日数は僅かであり、監督やコーチ陣が関根選手のスキルを把握できていなかったのは、理解できるところではありますが、中盤の右サイドに布陣しているものの、窮屈な位置取りから、初のドイツリーグで面食らっている関根選手を感じました。
  
Jリーグの中でも小柄な選手の一人だった関根選手は、2部とはいえドイツリーグ特有の屈強な選手が多い中奮闘しますが、特徴が活かされないままにゲームは終了してしまったのです。
  
「チームは開幕から2連敗していた。そんな中で、この試合ではチームが逆転ゴールを決めてリードしていて、攻撃に徹した方がいいのか、それとも守備で貢献すればいいのか判断しづらかった。でもデビュー戦だし、少しは爪痕を残したい。そうも思っていた中で空回りしてしまったんです。その後チームは逆転されてバランスが完全に崩れた。正直、初めてのピッチで混乱した。そして思った。『俺は、このリーグ、このチームのことを何も知らなかったんだな』って」
  
チームも関根選手の特徴を理解できていない中、関根選手もチーム事情を理解できていなかったのです。ほろ苦いデビュー戦となってしまいました。
  
そして何よりも残念なのは、FCインゴルシュタット04におけるリーグ戦の出場は、何とこのデビュー戦の途中出場のみという結果になってしまったことです。夢に描いていた海外クラブへの移籍は、挫折の道に変わって行ってしまうのです。

https://twitter.com/Schanzer/status/1144517223765151744

ドイツでもがき続けた1年

  
サッカー界に留まらず、一般社会においてもミスマッチはありとあらゆる場所で発生するものです。会社と個人、上司と部下、仕入先と販売先、男女間等、それぞれに悪意や至らざる部分があっても無くても、マッチングという運によって、人生は善くも悪くもなるものです。
  
筆者は関根選手のFCインゴルシュタット04での初戦を観戦して、そのゲームにおいてそれを強く感じてしまいました。自ずと関根選手がコメントしている様に理解力不足があった事は否めませんが、ボタンは最初に掛け違えてしまうと、往々にして元に戻らなくなるものです。
  
チームは2部に降格したばかりのリーグ戦で3連敗を喫し、関根選手がチーム合流時のマイク・バルプルギス監督が解任されて、U-21チームを率いていたステファン・ライトルが新監督に就任します。ミスマッチは更に広がってしまいました。
  
攻撃的な右ウイングを得意とする関根選手が、右サイドバックに転向を命じられたのです。自らのポジションでない事に関根選手は自分を納得する事ができなくなります。「『俺はサイドバックの選手じゃない』と言いに行った。チームが4-1-4-1を採用したときはシャドーでもプレーした。でも、それも僕のポジションじゃない。」と。
  
こうしてミスマッチは広がり続け、気がつくとベンチに入ることもできなくなり、自ら出場できる新天地を求めてレンタル移籍を申し出たのです。  

シント・トロイデンVVで海外初ゴール

  
FCインゴルシュタット籍のまま、関根選手は2018年7月、ベルギー1部リーグのシント・トロイデンVVにレンタル移籍します。現日本代表DFの冨安健洋選手が在籍していました。関根選手が加入すると、同じ時期に浦和レッズから遠藤航選手が移籍し、気がつくと5名の日本人が在籍する事になってしまいます。筆者既著の「ロシアでの無念を晴らすべくベルギーの地へ!シント・トロイデンVVの遠藤航選手」(https://shooty.jp/13692)にこの辺りの事情を書いていますので、ご参照下さい。
  
出場機会を求めてベルギーにやって来ますが、今度は二つの問題に直面してしまいます。一つは怪我です。開幕前の練習試合で痛めた怪我が尾を引いてしまします。漸くベルギーでのデビュー戦となった2018年9月1日のリーグ第6節オーステンデ戦。終了間際の84分に途中出場しますが、このデビュー戦で右ハムストリングを負傷してしまいます。ベルギーでもスタートで躓いてしまったのです。
  
そして二つ目は、日本人が多いということです。ベルギー・リーグには外国人枠という制度がありません。その上、日本のDMM.COMがスポンサーである事から、日本人選手が集結しているクラブなのです。海外クラブに移籍しながら、5名もの日本人が在籍するクラブというのは稀有の存在で、自ずと良し悪しが混在しています。
  
怪我で苦しむ関根選手を尻目に、他の日本人選手がスタメンを勝ち取り活躍しているのですから、身体的にも精神的にも関根選手のストレスは晴れる方向に向かい難くなるのも頷けると思います。然しながら、だからこそ実力が全てと割り切る事に繋げる事もできます。関根選手はリハビリを続けながら、徐々に心身共に戦える自分を取り戻して行きます。
  
途中出場からスタメン出場を果たす様になり、2019年4月28日のプレーオフ2という仕組みの第6節KFCOベールスホット・ヴィルレイク戦で移籍後初得点を決めたのです。同僚の鎌田大地選手とのワンツーによって生まれたゴールでした。浦和レッズ時代の2017年7月1日サンフィレッチェ広島戦以来の2年振りのリーグ戦でのゴールとなったのです。結果的にこの1ゴールが、関根選手が海外リーグで得点した唯一のゴールとなりました。

https://twitter.com/STVV_JP/status/1122589663842033664

新星関根選手や如何に

  
2シーズンの海外挑戦はほろ苦い経験になってしまいました。ドイツ2部、ベルギー1部のクラブに1シーズン毎に在籍しながら、レギュラー・ポジションを掴み取る事ができませんでした。考え抜いた果てに、古巣の浦和レッズに戻る決心を固め帰国しました。
  
「本当にこの2年、自分の思うようなシーズンが送れませんでした。やっぱり必要とされるクラブでプレーできることがどれだけ幸せなことかということを味わいました。」苦しい2年間だったことは容易に想像がつきます。そして、熱くも暖かい浦和レッズのサポーターの前で、以前の様にワイド・ポジションから攻撃をしかける特徴を存分に発揮したいことでしょう。
  
たった2年間という短い間とはいえ、浦和レッズもこの間にメンバーは微妙に変化していますし、フォーメーションにも違いが生まれています。関根選手同様、ジュニアユースからトップチームに昇格しているU22日本代表の橋岡大樹選手や、関根選手無き後ドリブラーとして埼玉スタジアム2002を沸かせる汰木康也等、新たに後輩とのポジション争いに挑まなければなりません。元浦和レッズのスタメン選手で海外帰りとはいえ、自動的にポジションが待ち受けている訳ではなく、タレント豊富な浦和レッズの中盤で出場するには、これはこれで海外クラブと同等又はそれ以上かもしれないチーム内争いが待ち受けています。
  
それでもサポーターは待っています。サイドアタックが鳴りを潜めてしまった今の浦和レッズに、ワイドからの突撃を試みる関根選手の勇姿を取り戻して欲しい筈なのです。新たなメンバーとの融合の中で、かつての埼玉スタジアム2002きってのドリブラーの復活を、多くのサポーターが心待ちにしています。
  
攻撃的なチームカラーから、若干守備的な色彩を帯びた今シーズン、新監督体制下かつての様に暴れまわって欲しい。筆者はそう願って止みません。

厳しい言い方かもしれませんが、関根選手の海外挑戦は、ケース・スタディとしては失敗例なのかもしせません。然しながら、成功は挫折の裏返しに存在し、挫折を知っているからこそ成功への渇望と努力が強く生まれるものでもあります。
古巣という安堵感と共に、自らの手で浦和レッズでの低位置を失ってでも賭けた海外移籍で、喪失感だけではなく、自らの歴史に重ねた年輪で、熱く燃える気持ちがある筈です。
かつて関根選手が埼玉スタジアム2002で右サイドからドリブルを仕掛けると、スタジアムがどよめく程に沸いたものです。あのドリブルが見れる日は近い筈です。
お帰り関根選手!そして頑張れ!

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