今期J3のSC相模原に所属していた元日本代表の高原直泰選手が今期限りでSC相模原を退団することになり、去就が注目されていました。先日記者会見があり、沖縄でサッカークラブを立ち上げる事が発表されました。
沖縄での構想と、高原選手のこれまでの歩みを辿ってみました。
by 沖縄タイムス
ブンデスリーガまでの歩み
by Jleague.jp
高原直泰選手は静岡県のサッカー名門校である清水東高校出身。高校卒業後にジュビロ磐田に入団。U-16から各年代の日本代表に選出されており、サッカー人生の早い段階から日本のトップ選手として活躍しました。
高原選手と同じ1979年生まれには、小野伸二選手や稲本潤一選手など才能のあるサッカー選手が多く、黄金世代とも呼ばれています。
ジュビロ磐田では4期を過ごした後に、初の海外チームとなるアルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズに移籍。しかし活躍はできずに1年でジュビロ磐田に復帰しました。
帰国後の2002年にはエコノミー症候群を発症して代表から漏れてしまい、日韓Wカップには出場できませんでした。
一方で当時のジュビロ磐田は全盛期で、2002年には前後期を制して年間優勝。高原選手も得点王とMVPの両方を獲得するなど、プロサッカー選手としては最盛期を迎えました。
サッカー選手として最高の状態で、ブンデスリーガのハンブルガーSVからオファーがあり、初のヨーロッパチームへ移籍する事になりました。
ブンデスリーガでの足跡
by ファンタジーサッカー
ブンデスリーガでは2つのチームで通算6期を過ごしました。最初のチームはハンブルガーSV。移籍1年目に連続無失点記録更新中だったバイエルン・ミュンヘンのオリバー・カーンの記録を絶つゴールを決めるという快挙を成し遂げるも、ハンブルガーSVでの4期通算で確固たる実績を残せた訳ではありませんでした。
2006年にアイントラハト・フランクフルト(以後フランクフルトと記載)に移籍します。この年はドイツでWカップが行われ、高原選手も代表に選出されて予選リーグ3試合に出場するも無得点に終わります。
しかし、所属のフランクフルトでは日本人選手初となるブンデスリーガでのハットトリックを決めます。2007年シーズンでは自身ブンデスリーガでの最高得点である11点を決めます。
ヨーロッパリーグでの二桁得点というのはペルージャ時代の中田英寿選手以来となる記録となりました。
ブンデスリーガから帰国後の足跡
by SOCCER KING
6期過ごしたブンデスリーガから2008年に帰国。復帰先は古巣のジュビロ磐田ではなく浦和レッズでした。浦和レッズは2007年にアジアチャンピオンに輝いた後、FWのワシントン選手が退団したことにより得点力のあるFWの補強が必要でした。
しかし、高原選手は浦和レッズのスタイルにマッチできずに思うような成績を残せませんでした。その後韓国の水原三星ブルーウイングス、清水エスパルス、東京ヴェルディと一二年での移籍を繰り返し、今期はとうとうJ3のSC相模原に所属する事になったわけです。
ブンデスリーガ経験者のJ3移籍はJリーグ初の出来事になりました。SC相模原ではキャプテンを務め上げて、シーズン終了と共に退団することになりました。
沖縄SVを立ち上げ
SC相模原を退団した高原選手の去就に注目が集まりました。どのチームに移籍するのか、又引退を決意したのか。ところが予想もしない進路を決めたのでした。サッカークラブを設立してしまったのです。しかも場所は沖縄県。
チーム名は「沖縄SV」。ドイツ語でスポーツクラブを意味するSport-Vereinの略称SVがチーム名に冠されています。自身がブンデスリーガに「挑戦した気持ちをずっと忘れずにいるため」に所属したハンブルガーSVから取ったそうです。
この沖縄SVは単なるサッカークラブではなく、沖縄にスポーツ総合施設をつくる事を目指して設立されました。柔道で五輪3連覇の野村忠宏氏、元ラグビー選手の福永昇三氏との共同出資で運営会社の株式会社「アスリートアイランド」を設立し、自身は現役を引退せずに、クラブの代表、監督、選手と3役に挑戦するそうです。
とはいえチームの母体作りはこれからで、来期沖縄県3部リーグからのスタートになるなど、Jリーグに昇格するまでは大きな山が待ち受けています。
それでも夢を持ってこういった進路を選択した高原選手の今後に注目です!