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100得点は通過点!更なる境地を目指す浦和レッズの興梠慎三選手

扇ガ谷 道房

2016/11/06 23:10

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NEWS

100という数字は切りの良い数字であり、満点を表す数字。一つの成果を表現するのに適切な数字です。
今年Jリーグで節目となる100得点を記録した選手がいます。浦和レッズのFW興梠慎三選手(以降興梠選手と記載)です。
現役バリバリの興梠選手にとって、100得点はあくまでも通過点。嬉しい記録も淡々とスルーして、更なるゴールに向かっています。

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小学生時代から天才的ストライカー

興梠選手は1986年生まれの宮崎県宮崎市出身のサッカー選手です。
小学生の時にサッカーを始めた興梠選手は、高校までは特段の華々しいサッカー経歴がある訳ではありませんが、地元ではちょっと知られたサッカー少年だったそうです。
後に鹿島アントラーズでチームメイトとなる伊野波雅彦選手は小学校のチームメイトで、「ゴールを決めまくっている印象しかない」と述懐されています。ある年は約15試合で50得点していたと伝えられています。ほぼ毎試合ハットトリック以上のゴールを量産していたことからも、超絶サッカー少年だったことが伺えます。
得点力は既に小学校の頃から備わっていたという事であり、現在の興梠選手の下地は既に小学生の時から備わっていたのでした。

02_%e8%88%88%e6%a2%a0%e6%85%8e%e4%b8%89by 日本代表スポーツ応援団

Jリーグ初ゴールは入団3年目

志望校への進学に失敗した興梠選手は、請われて強豪サッカー部を擁する鵬翔高校に進学します。
高校2年生の時に全国高校選手権に出場し、本田圭佑選手(現ACミラン所属)擁する星稜高校に敗れてしまいます。この敗戦は興梠選手のサッカー選手のモチベーションに火を点けたと言われています。
高校卒業した2005年にJリーグの名門クラブである鹿島アントラーズに入団します。高卒ルーキーとして初年度から公式戦に出場しますが、2年間はゴールを挙げる事ができませんでした。
初ゴールを決めるのは入団して3年目の2007年シーズン第14節の大分トリニータ(現在J3)戦でした。このゴールから今シーズン達成したJリーグ100得点への道のりが始まったのです。

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ジーコイズムの薫陶を受け成長

鹿島アントラーズはJリーグで最多優勝回数を誇る名門クラブです。Jリーグ発足前の1991年、鹿島アントラーズの前身クラブである住友金属に、ブラジルサッカー界のスーパースターである元ブラジル代表選手のジーコ選手が入団しました。勿論Jリーグ発足を踏まえての補強でした。
既にジーコ選手は全盛期を過ぎてはいたものの、1993年のJリーグ開幕戦でハットトリックを決めるなど、ブラジルのスタープレイヤーとしての見事なプレイを日本のサポーターに見せてくれました。
ジーコ選手の存在は、そのプレイだけにとどまらず、その後ジーコイズムと呼ばれて鹿島アントラーズの精神的な支柱になっていきます。ピッチ上のプレイにとどまらず、ゲームに向かうまでの日常の過ごし方や、ゲームに臨む姿勢、勝利へのあくなき拘りなど、プロフェッショナルなサッカー選手としての心構えが今も語り継がれています。
そういうバックボーンのあるクラブで、興梠選手は高校卒業から育って行ったので、物静かなパーソナリティながら、プロサッカー選手として勝利に拘る姿勢を身につけて行きます。
そして、日本代表の柳澤敦選手やマルキーニョス選手という、鹿島アントラーズきってのエースストライカーの存在をつぶさに見続けて、ストライカーとしての成長の糧にして行きました。
2007年から2009年にかけて、鹿島アントラーズはJリーグ3連覇を成し遂げます。謂わば鹿島アントラーズの絶頂期に、若手ながら主力選手として出場を続けて、興梠選手は勝つメンタリティとストライカーとしての経験を積んで行きました。

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