史上最年少記録と言えば、ティーンエイジャー以下の年齢を想像されるのではないかと思います。
ところが、プロアスリート選手でありながら、35歳という年齢で史上最年少記録を作った選手がいます。浦和レッズのMF阿部勇樹選手(以降、阿部選手と記載)です。
その記録はJリーグ500試合出場という大記録です。
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15年間ずっと出場して初めて達成できる記録
アスリートの記録というのは、瞬間的にその時だけに達成される記録と、選手として継続していることにより達成できる記録とに分かれます。阿部選手の記録は後者の継続的な記録です。
継続的な記録を達成するには、ライバルが多く、歳をとり、怪我に悩まされるプロアスリートの世界では、あらゆる側面で秀い出る能力が無い限り実現できません。阿部選手のJリーグ500試合出場という記録は正にそういう種類の記録です。
得点王やアシストランキングの様に、そのシーズンで最も多い回数を達成した人に贈られる表彰は勿論素晴らしい賞ですが、長年ピッチに立ち続けない限り達成できない出場記録は、目立たない記録ながらとても価値のある記録と言えるのではないでしょうか。
Jリーグという日本のトッププロサッカーリーグで出場するには、当然ながら優れた力量のある選手でなければ実現できません。その上、毎年新人選手が入団したり、外国人選手が移籍して来たり、自分が一年一年歳をとる間にもフレッシュなライバルが毎年現れます。格闘系ボールゲームであるサッカーには怪我もつきものです。その環境の中で、長年出場を果たすというのは至難の業を言えます。
阿部選手の500試合出場記録は、Jリーグの1シーズン試合数で割ってみると、達成するのに約15年間の時間が必要な計算になります。浮き沈みの激しいプロサッカークラブの選手として、15年間毎試合に出場して初めて実現できる記録です。15年間Jリーガーでいる事だけでも大変なのに、その間全試合に出場しない限り達成できない記録です。そう考えるとこの記録の凄さがご理解頂けると思います。
サッカー人生を変える監督との出会い
浦和レッズのキャプテンとして、阿部選手は今や浦和レッズを代表する顔とも言うべき存在ですが、実はジェフユナイテッド市原(現在J2のジェフユナイテッド市原・千葉)でプロ生活をスタートさせて、現在まで両クラブで9年間ずつ在籍しています。
阿部選手は千葉県市川市で1981年に生まれました。ジェフユナイテッド市原ジュニアユースからトップチームに昇格した生え抜き選手です。1998年シーズンでJリーグデビューを果たし、そのデビューは16歳333日目の事で、当時のJリーグ最年少出場記録でした。
言わば早熟なサッカー選手だった阿部選手ですが、若くして記録を作ってしまった若者にありがちな奢りや自意識過剰な態度をする事も無く、むしろ穏健で温厚な性格の若者でした。
言わば早熟なプロサッカー選手であったのに、地味で大人しい性格だった阿部選手にインパクトを与える監督が着任します。2003年、後に日本代表監督に就任するイビチャ・オシム監督(以降オシム監督と記載)がジェフユナイテッド市原の監督に就任したのです。オシム監督が阿部選手に大きな影響を与える事になりました。
キャプテンシーとポリバレント性の薫陶
オシム監督は独自の明確なサッカー理論を持った監督です。サラエヴォ大学理数学部数学科出身で、数学者になるかサッカー選手になるかを迷った程数学に秀いでた監督なので、どこか大学教授の様な風格と威厳があります。
打ち出したコンセプトが「考えて走るサッカー」と言われる独自のサッカー理論でした。走力と哲学が重視されて、人もボールも動くサッカとして、考えて動くサッカーがチームに躍動感をもたらしました。
その上で若手を積極的に起用し、阿部選手もその筆頭格として評価され、21歳にしてジェフユナイテッド市原のキャプテンに抜擢されます。
若くして国際経験や実力を備えながら積極的に前面に出ようとしない若きサッカーエリートである阿部選手に、オシム監督が与えたショック療法の意味合いが強かった様です。
ベテラン選手の多くが放出され、キャプテンに任じられた阿部選手は、複数のポジションをこなしながら、自らがチームをまとめる役目を果たして行く様になり、オシム監督が期待した通りに活躍を始めます。
2005年には守備的なMFながらチームトップのシーズン12得点を記録するなど、ジェフユナイテッド市原の文字通り中心選手に育ちます。
こうして阿部選手は、オシム監督という師の下で、キャプテンシーと複数のポジションをこなせるポリバレントな選手に成長して行ったのでした。
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