香川真司、中村俊輔、名波浩の三人はいずれも日本代表で背番号10を背負っていたことがあります。
ドーハの悲劇を味わった日本代表で10番を背負っていたのは、多彩なテクニックで観客を魅了したブラジル出身の『ラモス瑠偉』。そんなラモス瑠偉とは一体どんな選手だったのか?現在は何をしているのか…ここで経歴をまとめてみました。
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19歳でブラジルから日本へ
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ブラジル時代は18歳でサンパウロ州にあるサージFCへ入団するも、レギュラーに定着して活躍するまでには至らなかったのです。
しかし、19歳のときに転機が訪れることに。当時、読売サッカークラブに在籍していた与那城ジョージにスカウトされ、家族の反対がある中で日本へやってくることになります。
日本へ来る前はDFだったのですが、来日してからはFWとして得点にアシストと大車輪の活躍します。
ファンジスタとしてトップ下に君臨
1993年にJリーグが開幕すると読売サッカークラブからヴェルディ川崎とチーム名が変わり、ポジションもトップ下へ。インスピレーションと技術の高さで三浦和良や武田修宏など豪華な攻撃陣を自在に操り黄金期を牽引。
1994FIFAワールドカップ・アジア予選の日本代表にも選出され、代表のキーマンとして背番号10を背負います。
しかし、ワールドカップを目前にした試合でドーハの悲劇を経験し、念願のワールドカップ出場の夢を果たすことは出来なかったのです。
すべてのサッカー競技の日本代表を経験
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Jリーグに戻ったラモス瑠偉はヴェルディ川崎、京都パープルサンガ、そしてヴェルディ川崎に戻り引退します。
1998年11月14日の柏レイソル戦で1975年からのサッカー選手人生を終了したのです、
引退後は1999年フットサル日本代表にも選出され、キャプテンとして4位の原動力となりました。
他にも1997年にビーチサッカー日本代表にも選出されたことで、すべてのサッカー競技の日本代表に選出された初めての日本人としてFIFAオフィシャルページでも紹介されています。
FC岐阜の監督として
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現在はFC岐阜の監督として2014年から指揮を執っているのです。
ラモス瑠偉が指導した選手の中から、香川真司に続く日本代表の10番が生まれることを期待しています。
SOURCE : Wikipedia | ラモス瑠偉オフィシャルウェブサイト