プロスポーツチームに10年以上在籍している選手は、そのチームの顔とも言うべき選手であり、ファンにとっては深い愛情を注ぐ存在とも言えます。
Jリーグという我が国で最高峰のサッカーリーグのトップカテゴリーで、トップチームに在籍し続ける事は並大抵の事ではありません。
17年間浦和レッズ一筋に在籍し、全てのタイトルを知るチーム唯一の存在である平川忠亮選手はJリーガーの中でも稀有の存在です。
残念ながら今シーズン限りで現役を引退してしまいました。いぶし銀の持ち味を如何なく発揮してくれた骨のあるJリーガーの引退は寂しさを禁じ得ません。
平川選手へのフェアウエル寄稿としてお届け致します。
#平川忠亮 選手(39歳)が現役を引退することとなりましたので、お知らせいたします。
詳細はこちら→https://t.co/zEpAYZeKbD
平川選手の言葉どおり、ぜひ、スタジアムにお越しいただき、いつもどおりみなさんと共に戦い、送り出せれば幸いです。#urawareds#浦和レッズ#最終節も共に pic.twitter.com/nEXoqAWnhf
— 浦和レッズオフィシャル (@REDSOFFICIAL) 2018年11月26日
日本代表に選出されなかったサッカー人生ながら
17年間Jリーガーだった選手とは言え、日本代表歴は一度も無く、華々しい個性を持った選手ではありませんでしたから、浦和レッズのサポーターは別にして、平川選手の事をご存じの方は、かなりのJリーグファンと言う事ができるでしょう。
一方、ご存じなかった皆さんには、是非知って頂きたかった渋い選手だったのです。
平川選手のJリーガーとしての歴史は、筆者既著の「タレント揃いの浦和レッズで16年、いぶし銀のサイドバック平川忠亮」でご紹介しておりますので、ご覧下さい。
タイトルにも書いている通り、浦和レッズの主力選手は各ポジションで個性を発揮するタレント揃いで、スタメンで出場する各時代の主力選手の殆どは日本代表経験者ばかり。
2006年のJリーグ初優勝、2007年のアジア・チャンピオンズ・リーグ(以降ACLと記載)初優勝という、全盛期の浦和レッズの主力メンバーでありながら、平川選手には日本代表選出という縁に恵まれませんでした。
浦和レッズに加入する前年の2001年、筑波大学生だった平川選手はユニバーシアード日本代表に選出され、しかもキャプテンを担っていました。
その上での浦和レッズ加入ですから、日本代表として選出される将来を嘱望されましたが、そのチャンスは一度も訪れなかったのです。
では存在感の無い選手だったのかと言えば、決してそうではありませんでした。17年間の歴史の中で、浦和レッズ加入初年度から13年間は、毎年ほぼ20試合以上のゲームに出場を連続し、Jリーグ通算336試合もの出場を果たしているのです。数字が事実を示しています。
日本代表経験は無いのに、代表経験のあるチームメイトから一目置かれる存在。平川選手には、表立って見えない、男気のあるクラブ内の立ち位置が垣間見えるのです。
それは今シーズン終了間際に際立ちました。
天皇杯賜杯は平川選手のユニフォーム姿のキャプテンが掲げる
それまで多くのゲームに出場していた平川選手でしたが、今から3年前の2015年から極端に出場試合数が減ってしまいました。怪我のせいもあり2016年にはJリーガー人生で初めて、Jリーグ出場ゼロという記録を残してしまいます。
昨年は3試合、今シーズンも同じく3試合だけの出場に終わり、とうとう引退を決める事になってしまいました。
自らの引退を決めた今シーズンのチーム成績は、シーズン序盤の低迷を打破できず、ACL出場権も逃す5位で終えるという不本意な結果でした。
しかし最後の最後に踏みとどまります。第98回サッカー天皇杯で12年振りに優勝を果たし、来年のACL出場を決定付けました。
ベガルタ仙台との決勝戦は1対0の接戦。唯一の得点を決めたのは、平川選手の後継者と自負する左SBの宇賀神友弥選手。こぼれ球に躊躇無く反応したダイレクト・ボレー・シュートは、引退する平川選手に捧げたかの様に想いの籠った見事なシュートでした。
「自分の後を任せてもいいなと思ってもらえたと思う」と言う宇賀神選手のコメントからも、平川選手引退の花道を飾るゴールを決められた喜びに満ちていました。
決勝戦の舞台は本来会場の国立競技場が建設工事中の為、奇しくもホームの埼玉スタジアム2002。優勝の賜杯を掲げたキャプテン柏木陽介選手のユニフォームは、自らの背番号10ではなく、背番号14のユニフォーム。平川選手のユニフォーム姿だったのです。粋な計らいをしたキャプテン柏木選手には、平川選手に対する特別の想いがありました。
代表未経験者が代表経験者に諭す関係性故
平川選手と柏木選手は世代も違えば、ポジションも違い、生え抜きと移籍選手と言う違いもあり、部外者の我々にはクラブ内の接点が見えません。
平川選手のユニフォームを着用して賜杯を掲げた柏木選手には、キャプテン故の配慮という立場以上に、平川選手への強い想いがあったのです。
それは2011年シーズンの事。チームは二度目のJ2降格の危機にあり、柏木選手はスタメンを外れるゲームが続き、精神的に腐りかけていました。
そんな折に「今のお前のままでいいのか?」と柏木選手を諭したのが平川選手だったそうなのです。「もしも、ヒラさんがいなかったら、俺はもっと腐っていたかもしれない」と柏木選手は述懐しています。
ピッチ上では接点が見えない二人ですが、クラブ内では日本代表経験の無い平川選手が、代表経験者の柏木選手を諭し、両者はわだかまりのないクラブ愛に基づくシンパジーを共有していたのです。
我々には見えない二人の関係性があって、天皇杯の賜杯を掲げた柏木キャプテンのユニフォームが、14番平川選手のユニフォームだったのです。
平川選手が引退した今シーズン最後の公式戦で、浦和レッズは頂点に立ち、チーム自身のプライドと共に、いぶし銀の最年長生え抜き選手である平川選手に対するレスペクトの証として称えたのです。
クラブ愛に満ちているから
2003年のヤマザキナビスコカップ初優勝が浦和レッズにとっての公式戦初優勝記録(前身の三菱自動車工業時代は除く)ですから、それ以前の2002年に浦和レッズに加入し今年引退した平川選手だけが、浦和レッズの全てのタイトル・ホルダーなのです。
2003年ヤマザキナビスコカップ初優勝。
2005年天皇杯初優勝。
2006年Jリーグ初優勝。
2006年天皇杯優勝。
2007年アジア・チャンピオンズ・リーグ初優勝。
2016年ルヴァンカップ初優勝。
2017年アジア・チャンピオンズ・リーグ二度目の優勝。
2018年天皇杯優勝。
回数は別にして、全てのカテゴリーの優勝経験者である訳ですから、Jリーガーとしては最高に恵まれた環境に身を置き、自らもその優勝に貢献した立役者だった訳です。浦和レッズは、古くからのサッカー・タウンである浦和の街に存在するプロ・サッカー・クラブですから、熱烈且つサッカーに対する識見の高いファンが多い街。
時には厳しく叱咤する愛情に満ちたサポーターが多い事でも知られています。しかもホームの埼玉スタジアム2002は平均観客動員4万人を誇る、日本で最も観客動員数が多いスタジアムです。
実力と運が無ければ成り立たない事でもありますが、埼玉スタジアム2002のサポーターとスタジアムの雰囲気があってこそ、17年もの長きに亘り現役を継続することができて、数々の優勝も経験できたと言えるでしょう。そのことは引退記者会見で平川選手自らが語ってくれています。
「アジアを代表するサポーターと言っても過言は無いと思います。厳しい一面もあり、選手やクラブと対立してぶつかるシーンも何回もありましたけど、お互いがレッズを愛するがゆえのことだと思いますので、そういった部分でも愛を感じていました。
激励だけではなく、叱咤も聞こえていましたし、そういった声が自分を成長させてくれたと思います。
まだやらなければいけない、もっとやらなきゃいけない、この試合も次の試合も勝たなければいけないと、そういったプレッシャーの中でやらせてもらえたことは、自分が17年間やってこられた一つの要因というか、背中を押してくれたと感じています」
ゲームに出場できなくなってしまったここ数年。それでも平川選手はいつ途中交代で出場しても良い状態を保つ為、できる限りの事をしていました。
大原練習場に最も早く姿を現し、丹念に体を作り練習に臨んでいました。スタメンだから準備を怠らないのではなく、最年長であるチームのメンバーだからこそ、スタメンではなくとも時間をかけて黙々と体を仕上げる姿をオリベイラ監督は称賛しています。
サッカーのゲームではオフ・ザ・ボールの動きが大事な様に、チームにはスタメンではない選手の陰ながらの熱い努力が、チーム力を底上げできるのです。
たとえ出場できずとも、出場する為の準備を怠らない選手像を、平川選手は当たり前に後輩たちに知らしめてくれていました。派手さは無いし、代表経験も無いけれど、平川選手という選手は、プロフェッショナルを貫いていた男らしい選手だったのです。
平川忠亮選手からメッセージです。#urawareds #浦和レッズ #wearereds #平川忠亮 pic.twitter.com/lnBA7TeUhe
— 浦和レッズオフィシャル (@REDSOFFICIAL) 2018年12月1日
浦和レッズの全ての優勝を知る男、平川忠亮選手。明言は避けていますが、将来は浦和レッズの監督としてクラブに戻って来たい想いを示唆しています。
17年間多くの監督に仕え、数々のタイトルを獲得し、多くのチーム内ライバルとポジションを争い、スタメン出場できずとも準備を怠らず、チームの為にできる事を実行する選手だったのですから、その経験値を基に、是非とも浦和レッズに帰って来て欲しいと願っています。
17年間の選手生活に対して敬意と尊敬の念を以ってフェアウェル寄稿を捧げます。