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クラブの哲学を子供たちに。チェルシーFCサッカースクール東京・中島彰宏さんインタビュー 後編

編集部

2016/03/23 20:00

2016/03/22 21:55

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いざサッカー頑張るぞと思った矢先に…

Jリーグも出来て、サッカーやる子からすればプロ選手という夢を誰しも一度は見ると思うんですが、中島さんの中でもありましたか?

小学校の頃からプロになりたいと常に思っていました。Jリーグの下部組織のセレクションに中学の時に1回落ちていますが、それでも自分は同年代の選手たちに負けていないと思い込んでいました。

なるほど、で高校はどうされたんですか?

地元の公立高校にサッカーの指導に優れていると東京都ではちょっと有名な先生がいらっしゃって、その方に中学生の時に「うちの高校においでよ」と言って頂いたことがあって。これまで自分は専任の指導者のもとで学んだことがないというのもありましたし、Jリーグの下部組織でプレイしていたような人たちも、わざわざその先生の指導を受けるためにその高校に入学したりしていたので、じゃあ僕もそこに行こうと受験し入学出来ました。で、いざサッカー頑張るぞと思った矢先に、都立ということもあってその先生が転任されて・・・。

ひどい(笑)。誰か代わりの専任の先生が入って来たんですか?

来なかったです。で、その先生がいなくなったら、先輩たちがそこまでモチベーション高くやっていたわけでもなくて、チームが弱くなってしまいました。ただ高校1年の時にその地域の選抜高校とその地域のクラブチームの中で選抜チームを作って遠征に行くって話があって、僕もそのセレクションを受けて入ることが出来ました。

高校1年の時は先輩がいるからまだスタメンで出れるような感じではなかったんですか?

スタメンだったんですが、采配や練習のメニューとかは全部先輩主導でやっていましたね。

じゃあ、個人として、高校の部活とは関係なくそのセレクションを受けたら受かって。

はい、そこで専任の指導者のもと、遠征に行ったりする中で学ばせて頂いていました。とはいえ、高校に戻ったら監督もいないので、先輩を始めみんなモチベーションも低く、それに嫌気をさしてしまいました。高校2年生になる時に、当時サッカー雑誌の中にクラブチームのセレクション情報があって、それを見たら近くのクラブチームで全日本ユースに出場したクラブがセレクションをやるって書いてあったので、これは行くしかないと。で高校の顧問の先生にも「受かったら退部します」と伝えました。無事合格出来、練習もしていたんです。そんな中で、クラブチームの選手登録と高校の選手登録と2重登録は出来ない規定なんですが、両方とも登録した選手が試合に出てしまった。で、罰則としてそのチームは翌年のJFAの公式試合1年間登録出来なくなってしまったんです。

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高校時代は不運が続いてしまった

どんだけ不幸なんですか(笑)。

ただ、僕はまだ入団手続きはしてなかったんですよ。そんな中で起きたことだったので、「えぇっ!」ってなって。試合はないけどチームにはちゃんとしたコーチはいて練習は出来る、高校に戻ったら指導者はいないけど試合には出られる。そこの天秤にかけた時に、先輩は引退して行くので、自分がもし中心で色々やれるんだったら、高校に戻ろうと考えました。

他のクラブのセレクションを受けようっていう選択はなかったんですか?

ありました、実際に受けて受かった所もあるんですけれども。八王子市がちょっと地理的にも恵まれているとはいえない場所だったので。で、また高校に戻りました。高校でも選抜チームと自分のチームと2つで活動していて、高校の方は指導者がいないので浅はかな知識で、練習にあまり真面目に出てこない人にも上手く伝える方法がないか、とかずっと考えながら。勝ちたいので、サッカーのビデオをいっぱい見たり、資料を読み込んだりしていました。ある時、東京都全体の高校サッカーの指導者を集めたリーダー講習会というのが開催されたんです。

高校生が行くような講習会だったんですか?

先生や監督向けなので、高校生が行くようなものではありませんでした。当時、名門帝京高校の監督だった小沼監督が講師で、うちの顧問にも申し込みの案内が来ていたんですが、自分は行くつもりはないと。じゃあ、「僕これ行っていいですか?」「いいけど、選手というか生徒いないよ」「それでも良いです」みたいなやり取りをしたのを覚えています。会場には選抜の監督なんかもいて、「なんでお前いるの?」「いや、うちの学校のサッカー部、先生いないので僕が勉強しに来ました」と。そこで学んだことをチームに持ち帰って伝えて、その時から伝える楽しさとか、サッカーを勉強する楽しさを味わったのかもしません。

本当に縁というものにびっくり

高校出たらJリーガーっていう子もいる中で中島さんはどう考えたんですか?

大学でサッカーをやれるような環境が少し整ったんですが、ちょうど高校3年の終わり位に腰椎分離症っていうけがをし、動けなくて起き上がることも出来なくなってしまいました。入学してからプレイ出来るかも分からなかったのでそれで入学するのはちょっとということで大学の入学も出来なかったんです。で、それから腰は直して、ボールをける環境が欲しかったというのもあり、母校の高校でコーチみたいなことやっていました。

ある時サッカー雑誌のセレクション情報の中に当時全日本でも優勝していたフットサルチームの情報があって、セレクションを受けに行ったんですが、フットサルシューズの存在とか知らず中学校の時の体育館履き持って行って、「それ何の靴なの?」「え、これ中学の体育館履きです」「お前、本気で言ってるのか?」みたいなやり取りはあったんですが、何とか入れさせてもらえて、フットサルの選手としてやっていました。

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フットサル選手時代

なるほど。生活はバイトしてフットサル選手もやってみたいな感じだったんですか?

バイトや契約社員をやっていました。一緒にサッカーしていたみんなはプロのサッカー選手を諦めて、大学や違う道に進んでいたんですが、僕はまだプロサッカー選手になれるんじゃないかと根拠なく思っていて。もしなれなかったとしても、将来何かしらサッカーの仕事をしているだろうなっていうイメージはありました。そうやってずっと選手やりながら過ごしていたんですよね。そんな中、八王子市のサッカー協会がフットサルリーグのチームを八王子市で立ち上げるというプロジェクトがあって、チームを作るから、僕に選手兼監督をやってくれないかという依頼があり応じることになりました。

なんで中島さんだったんでしょう?

僕は八王子出身で元々八王子サッカー協会の会長さんにもお世話になっていました。中島だったら、例えばサポートしたお金を持ち逃げするとか変なことはないだろう、サッカーの知識もあるし、一生懸命やっているのも知っているから。そして、八王子市出身の選手が八王子市のチームでFリーグになるというコンセプトで打ち出していきたいから、引き受けてくれないかということでした。もちろん、プロではないので、僕も契約社員を続けながらそのチームで活動していました。

すると、協会の会長さんから「今どうやって飯を食っているんだ?」と言われまして。「普段は契約社員で普通に働き、夕方に終わって八王子に戻って夜練習をやっています」とお話したところ、「Jリーグのチームのサッカースクールで働くのは興味ないのか?」って言われて。「あります、ただツテもないので・・・」と言ったら、すぐその会長さんがそのJリーグのチームのサッカースクールの方にこういう奴居るから入れてやってくれないかみたいな電話をして、で10分ぐらいして戻ってきて「話し付けたから、あとは自分で連絡しろ」って。僕は指導者としてお金をもらったことはないですし、子供相手に指導した経験もなかったんですが、ヴェルディのサッカースクールで働くことになりました。

小学生を対象にということですか?

幼稚園から小学生ですね。僕からその会長さんに「サッカーの仕事をしたい、コーチの仕事をしたいから紹介して下さい」って話なんて1回もしたことなかったんです。あくまでプレイヤーだったので。もちろんサッカーに関わる仕事が出来ればという気持ちはあったんですが、いきなりその話をされたので。本当に縁というものにびっくりしました。

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