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リオ五輪OA枠内定の広島DF塩谷司~叩き上げの規格外DFが世界デビューへ!

hirobrown

2016/06/24 20:05

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NEWS

01_塩谷司
by SOCCER KING

6月14日、日本サッカー協会は23歳以下で戦う男子サッカーのリオディジャネイロ五輪代表チームに、23歳以上の選手を3選手まで使えるオーバーエイジ枠の使用を正式に明言しました。
その上で、サンフレッチェ広島の塩谷司選手とガンバ大阪の藤春廣輝選手という共に27歳の日本代表経験もあるDF陣の選出を発表しました。
U23日本代表は今年1月に行われたリオ五輪アジア最終予選後、DF登録の選手が軒並み負傷離脱。特にサイドバック陣は最終予選登録の全4選手が負傷離脱する時期もありました。
強固なセンターバック陣からも、不動のメンバーと思われた奈良竜樹選手が左脛骨骨折でリオ五輪が絶望となる長期離脱となりました。
そんな中、SBでは昨年に日本代表デビューを果たした左SB藤春選手が選出。守備の要となるべきCBにも、代表経験があり、右SBでもプレーできる塩谷選手が選出されました。

プロへの転機となった大学時代の2つの出来事

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by サッカーマニアのblog

そんな塩谷選手は徳島県出身。地元の徳島商業高校でプレーし、全国高校サッカー選手権での活躍から国士館大学のスポーツ推薦の特待生枠で進学。当時はMFの選手でした。
しかし、国士館大学では全く芽が出ずの日々。さらに追い打ちをかけたのが、全く前兆もなく起きた悲劇。大学3年生の夏、塩谷選手の父が、くも膜下出血で急死してしまったのです。塩谷選手には、関西の大学へ進学したばかりの弟さんがおり、さらに受験を控えるもう1人の弟さんもいました。
国士舘大学でプロを目指してサッカーをしつつも、夢を諦めかけていた塩谷選手は、地元の徳島へ戻って就職し、家族を養う事を決意しました。
ただ、大学生として卒業まであと1年だった事もあり、サッカー部の監督や教職員の方々からはもちろん、母からも「何とかする」と周囲が説得して思い留まる事に。この瞬間、プロを目指すのではなく、「プロにならなれけばいけない」、と覚悟を決めた塩谷選手。そんな彼には直後に転機となる出会いもありました。
大学4年生になった2010年、「ドーハの悲劇」時の元日本代表主将としても知られた柱谷哲二氏(現J3・ガイナーレ鳥取監督)が国士館大学のコーチに就任したのです。
プロになる覚悟を持った塩谷選手は、いきなり柱谷氏に、「プロになりたいんです。そのための指導をお願いします」、と直接訴えたのです。
覚悟を決めた上で、運命的な出会いを経た塩谷選手は、柱谷氏の提案でCBにコンバートされ、一気に飛躍します。

水戸での飛躍、悩み苦しんだ広島移籍後の半年間

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by SANFRECCE HIROSHIMA

その柱谷氏が2011年度からJ2・水戸ホーリーホックの監督に就任。愛弟子である塩谷選手の獲得を推薦してくれました。
そこからは柱谷監督の下でプロ1年目からレギュラーに定着し、リーグ35試合に出場。182cm80kgという恵まれた身体能力の高さや1対1の強さだけでなく、DFというポジションを越えた、プレー範囲の広い規格外の選手に成長しました。
1年目からすでにJ2レベルでは収まらない塩谷選手のポテンシャルに、J1クラブからもオファーが殺到。シーズンオフには残留したものの、チームメートの元日本代表FW鈴木隆行氏からもJ1への移籍を勧められ、2012年の夏に広島への移籍を決意しました。
複数オファーの中から柱谷監督の勧めもあって広島を選択するに至ったのですが、柱谷監督は共にドーハで日本代表としてプレーした広島の森保一監督には、「塩谷が日本代表になれなかったらお前の責任だからな。呪うぞ!」と釘をさしました。恨みではなく、塩谷選手と森保監督への柱谷氏ならではの、期待の顕れです。
ただ、広島はJリーグの中でも最も戦術的に難解な<3-4-2-1>の可変型フォーメーションを2008年から継続しているチーム。ミハイロ・ペトロビッチ前監督(現・浦和レッズ監督)が導入してから森保現監督に交代しても継続される、クラブに植え付けられたスタイルへの理解と適応が問われます。
特にキャリアを通して戦術面ではあまり緻密な指導を受けず、固定概念に縛られずに成長を遂げた塩谷選手には特にそれが難解でした。悩みに悩み、円形脱毛症にもなりました。
チームが2012年にクラブ史上初の主要タイトルとなるJ1リーグの優勝を成し遂げる中、塩谷選手はシーズン途中からの加入で半年間プレーしたものの、リーグ戦での出場は3試合に終わりました。

4年間で3度のリーグ優勝と日本代表デビュー

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by Web Sportiva

しかし、日本代表に成長したDF森脇良太選手が2012年シーズン限りで浦和へ移籍する事を見越していた事もあり、クラブも森保監督も塩谷選手のポテンシャルに期待し、努力と成長を継続して見ていました。
2013年、森脇選手の抜けた3バックの右CBとしてレギュラーに定着した塩谷選手は、リーグ戦全34試合に出場。さらにリーグ最少の29失点に抑えて、最終節には大逆転してのリーグ連覇の偉業達成に大きく貢献しました。
翌2014年には序盤戦から自ら得点を量産して注目を浴び、ブラジルW杯直前には日本代表合宿にも参加。W杯メンバーには選出されずも、大会後のハビエル・アギーレ監督時代には遂に代表デビューも果たしました。
迎えた2015年、広島では副将に就任。それまでは本能的なプレーが多かった塩谷選手は、「アイツらは絶対にやってくれるから、自信を持つまでは守備陣が支える!」と考えて、序盤戦は攻撃参加を自粛。その上で、今や代表デビューも果たして欧州移籍も噂されるFW浅野拓磨選手や、MF野津田岳人選手(アルビレックス新潟へレンタル移籍中)等、若手攻撃陣の台頭を待つ兄貴的存在感をピッチ内外でも見せるようになりました。
チームは浅野選手の急成長に刺激を受け、森保監督の「成長しながら結果を出す」事をチーム全体で体現する事に成功。結果としてリーグ最多得点と最小失点となる73得点30失点で、J1リーグが18チーム制となった2005年以来のリーグ史上最多勝点74を獲得。Jリーグチャンピオンシップも制し、直近の4年間で3度目のリーグ優勝を成し遂げました。

高次元の「割り切り」と「柔軟性」

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by Web Sportiva

リオ五輪代表となるU23日本代表の手倉森誠監督は、「このチームに求めるのは、”割り切り”と”柔軟性”」というコンセプトを掲げています。
確かに、彼らは「割り切り」と「柔軟性」でアジアを制してリオ五輪への出場権を獲得しましたが、一方では割り切るのが早過ぎて引き過ぎてしまい、試合をコントロールできない事がよくあります。
塩谷選手がプレーするサンフレッチェ広島は、最終ラインからリスクを賭けてパスを繋ぐスタイルを採用しながら、守備に入る時は<5-4-1>でスペースを完全封鎖するほどの「割り切り」も見せるチームです。主導権を握る戦い方をしながら、同時に「割り切り」を選択する事ができるチームなのです。
上記のような苦労の数々も含めて、塩谷選手は決してエリートではありません。しかし、もっと高い次元での「割り切り」と「柔軟性」が必要なU23日本代表に、塩谷選手のようなDFは最適だと考えられます。
水本裕貴選手の骨折が発覚し、すでに長期離脱をしている佐々木翔選手も含めて、塩谷選手のリオ五輪招集でDF陣が一気に薄くなる広島の事情もあります。
それでも塩谷選手にはリオで活躍してもらいたい。その叩き上げのキャリアから培った情熱と、広島で体得した知的な冷静さ。その相反する要素を兼ね備えた「規格外のDF」としての活躍を期待したいと思います。

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