ひとりの女子サッカー選手の現役引退発表に驚愕した。渦中の選手は、なでしこリーグ1部『ノジマステラ神奈川相模原』に所属する尾山沙希選手である。
県リーグからスタートしたノジマステラは瞬く間にスターダムを駆け上がり、創部6年目にして日本における女子サッカー界の最高峰「なでしこリーグ1部」の挑戦権を手にした。
キャリア6年目、クラブ創設と同時期に入団した尾山選手は当初から主将としてノジマステラを牽引、昨シーズン、リーグ2部の優勝へ導き、自身はMVPを獲得。悲願の舞台での初挑戦となった今シーズンの勇姿は”サッカー人生のハイライト”として輝きを放っていた。
強豪揃いのリーグの中、苦戦を強いられていたノジマステラだが、最終節までもつれ込んだ残留争いを制し、リーグ1部に踏みとどまることに成功した。そして彼女は自らの役目を果たしクラブを去る決断をした。
今回のインタビューは、引退を決意した尾山沙希選手の胸のうちに迫っていく。ひたむきに突き進んできた尾山沙希のサッカー人生は後世の女性フットボーラーの指針になるのではないかと考えたからである。
これまで辿ってきたキャリアを振り返り、チームに託した想い、そして、新たなるチャレンジを期する現在の心境を語っていただいた。
尾山沙希のサッカー人生
——はじめに尾山選手のキャリアを振り返っていきたいのですが。
(尾山)サッカーを始めたきっかけは兄の影響でした。サッカーをやっていた兄が、クリスマス会の時にお菓子のプレゼントを持って帰ってくるんです。羨ましくて。(笑)それがきっかけで「サッカーやりたい!」と言ったみたいです。小学校2年生の頃でした。
——そこからサッカー人生が始まったのですね。その後、中学生になって『FCヴィトーリア』に入団しました。尾山選手の出身地は奈良県となっていますが、大阪まで通っていたのですか。
(尾山)はい、1時間半から2時間かけて。奈良にも女子サッカークラブはあったのですが、それほど強いチームではなかったので、上を目指したくて大阪通いを決めました。現なでしこジャパン10番の阪口夢穂選手が所属していたチームです。高校時代もFCヴィトーリアで過ごしました。
——そして高校卒業後に吉備国際大学に入学した。
(尾山)はい。学費を出してくれること、体育の教員免許を取得できることが背中を押してくれました。
——吉備国際大学はなでしこリーグ2部に所属している名門クラブですよね。
(尾山)そうですね。でも私が入学した頃は、徐々に強くなってきている段階で、大学が女子サッカーの強化を始めて4年目でした。なので、ちょうど4学年揃うタイミングでしたので、部員数もすごく多くて、その時はすでに強豪チームでした。
3年の時に入れ替え戦を戦って、4年の時にリーグに入りました。中国地方は本当に試合が少ないんですよ。インカレぐらいしかなくて。そういった理由でチャレンジリーグ参入を目指すようになりました。
——そして卒業後にノジマステラ神奈川相模原に入団。当時のノジマステラは発足元年でしたが、駆け出しのクラブへの入団を決めたきっかけはあったのでしょうか。
(尾山)なでしこリーグでやりたいという気持ちはありましたが、自分にはその実力がありませんでした。他チームでのプレーも叶わなくて、就職しようかどうか迷っていました。そのタイミングで新しいチームができるという話がありました。菅野監督の前所属『マリーゼ』の選手から素晴らしい監督さんだと伺っていましたし、上を目指せるチームだという直感がありました。それに、チーム発足というタイミングでなければ、たぶん私はステラに入れなかったと思っています。
——1年目の話に移りますが、クラブは県リーグからのスタートでした。ご自身もこの1年目が最も印象深かったと語っていますが。
(尾山)はい。ステラの6年間の中で最も印象的だったのが1年目でした。代表経験者もいないチームでしたので、それほど上手い選手はいませんでした。それでも1年でチャレンジリーグに昇格しなければいけないというプレッシャーだけが大きかった。当初は県リーグ3部の戦いでした。30対0の試合などもあり、ハーフタイムに筋トレをしたりして。とにかくたくさんの練習試合とトレーニングを積み重ねました。
本来ならば、3部から2部、1部、関東、チャレンジ、なでしこリーグという段階を踏むのですが、それを飛び級という形でチャレンジリーグへの挑戦が認められるチャンスに恵まれました。その条件は、皇后杯本選への出場という厳しいものでした。
レッズのユースチームや早稲田大学といった名門チームに勝たなければいけないという状況でしたが、それでも県で優勝できて、関東大会では本当にギリギリの戦いが続いていて、それでもなんとか決勝戦に進むことができました。決勝ではぼろ負けしましたけど(笑)その時の関東大会の印象はとても強いですね。
——サッカー選手のキャリアと同時に、この年は社会人としても1年生でしたね。いきなりの両立は大変だったのではないでしょうか。
(尾山)はい。本当に大変でした。ステラも出来上がったばかりのチームでしたので、仕事とサッカーの両立は、私たちにとっても会社にとっても初めてのことでしたので、社員の方々にしてみれば、サッカーの事は全く知らないわけですし、私たちは早めに仕事を切り上げる社員でしたから。だから仕事も一生懸命に取り組まなければいけないですし、その姿勢次第で応援してもらえるかどうかが決まってしまう。ギリギリのラインを歩いていたのかなと思います。
——尾山選手はチーム発足当時からキャプテンを務めていますよね。
(尾山)はい。キャプテン歴も6年で、キャリアも6年。吉備(国際大学)の4年の時もやっていたので、7年ですね。
——2年目は怪我から始まったシーズンでしたね。
(尾山)念願叶ってのリーグ昇格でしたし、「よし行くぞ!」と気合十分でしたが、リーグ開幕1カ月前くらいに骨折してしまいました。入院している間に開幕戦が始まり、シーズン中にリハビリをして、リーグ中旬から終盤くらいにようやく復帰できました。骨折して、手術して、ボルト入れて、4カ月位かかりましたね。
——3年目と4年目は、“涙の年“と公式サイトでコメントを残していますが。
(尾山)はい。3年目も4年目も。3年目は3位でした。最終節、高槻のグラウンドで勝てば入れ替え戦、5点入れて勝てば優勝。結局、引き分けてしまい昇格が叶いませんでした。3年で昇格というのがチーム発足当初の目標でしたので、それができなかった。
4年目は入れ替え戦で涙しました。リーグを2位で終え、高槻との入れ替え戦に臨みましたが、初戦ホームで2−2と引き分け、アウェイを0−0。アウェイゴールの差で昇格を逃してしまいました。
——瀬戸際の戦いが続いていますが、遂になでしこリーグ2部優勝を果たしました。5年目は悲願達成のシーズンでしたね。
(尾山)毎年のことですが、毎試合負けられないという大きなプレッシャーを感じていました。ようやく優勝できたシーズンでしたので、とても嬉しかったです。でも、肩の荷が降りたという、ホッとした思いの方が大きかったかもしれませんね。
——そして今シーズンは、「なでしこリーグ1部」初挑戦。涙を流し、ようやく辿り着いた舞台ですから、吹っ切れた想いでチャレンジできたのではないでしょうか。
(尾山)吹っ切れたチャレンジから始まったシーズンでしたが、徐々にプレッシャーのかかる試合になってきたという感じです。終盤は本当になかなか勝てなくて厳しい状況でしたが、だからこそ、チームの雰囲気を盛り上げたくて、「大丈夫だよ。次は勝てるから。」と言っていましたが、最後まで勝てませんでしたけどね(笑)でも最終的に残留を決めることができました。最後の最後まで常にギリギリを戦ってきましたね。
チームへの想い
——ノジマステラで戦い続けた6年間を振り返っていただきましたが、キャプテンとして歩んできた経験の中で、一番の財産はどんなことでしょうか。
(尾山)みんなとの出会いです。ステラに来た時、キャプテンに指名されるとは思ってもいませんでしたし、年上の人についていこうとしか思っていなかったのですが、キャプテンと言われて、やっぱり自分はそういう役目なんだなと思いました。
——どんなキャプテンだと思いますか?それは周りから聞いた方が早いんでしょうけど。
(尾山)しっかりしているのか。してないのか。どっちなんだろう?と思われていると思います(笑)
——キャプテンとしての理想像、憧れのサッカー選手はいますか。
(尾山)サッカー選手としては、FCヴィトーリアの時代の先輩、阪口夢穂選手と上辻佑実選手(共に日テレベレーザ所属)、この2人を尊敬しています。もうとにかく凄いです。上手いのはもちろんですが、昔は二人とも面白くて怖い人でしたが、今会うと優しくて。試合中も若い選手に声を掛け、常に気配りしている。選手のタイプに合わせて気遣いができる。すごいなと思います。
私は代表経験もないですし、なでしこリーグ1部で戦えるような実力がないと思っていますが、そういう選手たちと同じ土俵に立てたことが嬉しくもあり、違和感もありますね。
——代表経験がないとおっしゃいましたが、5年目のシーズンで“MVP”を獲得しました。それについてはどう思いますか?
(尾山)それはもうビックリでしたし、聞いた時は「ホントに?」って疑ったくらいです。でも本当に嬉しかったです。
——この6年間の中で尾山選手が挙げるベストゲームとは?
(尾山)やはり1年目の皇后杯出場をかけた1戦ですね。
——先ほどのお話の中で印象的だったのが、1年目の仕事とサッカーの両立の中で、応援されるようになることが大切だとおっしゃっていましたが、応援されるために必要なことはどんなことでしょうか。
(尾山)サッカー以外のところでも全力で取り組むこと。言葉だけではなく本気の姿を見せることが一番大事。自分たちが作ったその土台を崩さないように引き続き一生懸命やって欲しいなと思います。
——菅野監督とは、チーム発足以来、監督とキャプテンというタッグで歩んできましたが、この場で監督に言葉を贈るとしたら。
(尾山)ありがとうございましたぁー!(笑)
——軽いですね(笑)。練習前の光景を見ていても、監督と選手の距離感が非常に近いように感じますが、ノジマステラというチームにおいて、監督と選手はどのような関係性なのでしょうか。
(尾山)練習と試合の時は監督ですけど、ピッチ外では親戚のおじさんという感じですね(笑)でも本当に“愛が溢れるチーム”だと思います。それは監督が作ってくれたのかなと思います。
監督やコーチ陣は選手のことを一番に考えて行動してくれます。例えば遠征の荷物の準備も全部スタッフ陣がやってくれたり、練習中や練習後も、上着を持ってきてくれたり、常に配慮してくれていますし、率先的にやってくれるので、本当に感謝しかありません。
引退の理由、そしてセカンドキャリアへ
——多くの方々が感じられていることだと思いますが、28歳という若さで現役引退を決断した理由をお聞かせください。
(尾山)引退は昨年、一昨年あたりから徐々に考え始めていました。そして今年に至ったという感じです。今シーズンが始まる前には決めていたので、あらかじめ両親に伝えました。「今シーズンはよく両親がスタンドに来てるね。」と周りから言われていました。奈良から車で毎試合来てくれました。
——決断に至った出来事があったのでしょうか。
(尾山)試合に臨むために、コンディション造りをすることは当たり前ですが、体力面でも精神面でも本当に大変なことです。それがもう出来ないと感じています。
——トップコンディションを維持するのが難しくなってきた。
(尾山)そうです。どちらかというと体力面1割、精神面9割ぐらいですね。
——公式サイトに書かれていたコメントに“新しい目標”とありますが。
(尾山)はい。母が看護師をしていまして。今、私も看護師になりたいと思っています。この道が私のセカンドキャリアです。
——初耳でした。
(尾山)これまでは聞かれても答えたり答えなかったり。でも私は言葉にした方が叶うのではないかと思っています。今はもうためらいなく言っています。高校卒業と大学卒業の時に少し考えていました。でもやっぱり私はサッカーを優先しました。今、このタイミングになって、他のことも考えましたが、やっぱり看護師になりたいと思いました。
——これまでのキャリアを活かして、指導者や教員という選択肢は考えなかったのですか。
(尾山)そうですね。戦術は監督が作っていますし、自分には出来ないと感じることばかりで、不向きだと思います。
——セカンドキャリアが楽しみですね。
(尾山)はい。楽しみですね。
——サポーターにメッセージをお願いします。
(尾山)ステラのサポーターの皆さんは本当に優しくて、負けても応援してくれるし、ミスしても応援してくれる、本当に感謝しています。でもそんなサポーターの皆さんに、最近あまり勝ちを届けられなかったことが心残りなので、皇后杯はぜひ勝って終わりたいなって思います。
——今後、チームに期待することはありますか。
(尾山)一生懸命やってくれればそれでいいです。応援は勝ち負けに関係なく支えることだと思っています。私はまだ現役の選手なので、そんなことは言ってはいけないのかもしれませんが。(笑)私が引退して応援する立場になってもステラを応援したいと思っていますし、ステラも負けても勝っても応援してもらえるようなチームであり続けて欲しいですね。
——最後に、尾山選手にとってサッカーの魅力は何でしょうか?
(尾山)私にとってサッカーは、99.9パーセントの辛さ、0.1パーセントの喜びですね。そのわずかな割合の中に、大きな喜びが詰まっています。それがサッカーの魅力です。
——いつかサッカー界に戻ってきて欲しい。そう願っている人も多いのではないですか?
(尾山)多いですかね。でも何もできないと思いますよ(笑)やることはやったと思っています。「本当ににいいの?」と監督から何回も言ってもらえましたが、「大丈夫です!」と、すぐに答えられるくらいやり切ったんだなと思います。
——本日はお忙しい中ありがとうございました。
尾山 沙希(おやま さき)
1989年9月20日生まれ
奈良県出身
利き足:右足
ニックネーム:さっちょん、さち
経歴:FCヴィトーリア→吉備国際大学→ノジマステラ神奈川相模原
今回のインタビュアー勝村大輔氏のサイトでインタビュー後記を掲載しておりますので、そちらもご閲覧くださいませ。
今回は、最後に尾山沙希選手から”読者の皆様へのメッセージ”を収録しております。必見です。