過去の五輪を振り返る part1 -2004アテネ五輪-
リオ五輪開幕まで100日を切りました。今回から3回に分けて、過去3大会のオリンピックを振り返っていきたいと思います。第1回となる今回は2004年のアテネでの戦いをプレイバックします!
アジアでの戦い 最終戦までもつれ込んだ出場権争い
2003年にミャンマー代表を2戦合計8-0で破って最終予選進出を決めた日本代表。最終予選に進出した12チームを3ブロックに分け、各ブロックの1位になれば、オリンピック出場が決まります。日本の同組はバーレーン、レバノン、UAEの中東3チーム。ホーム&アウェー方式で計6試合を戦いました。まずUAEラウンドでアウェー3連戦を戦い、その後日本ラウンドでホーム3連戦という日程でした。
開幕戦となったバーレーン戦はシュート13本を放つも、得点を奪えずスコアレスドロー。しかし続くレバノンに4-0で快勝すると、UAEとの第3節でも後半40分から高松大樹選手と田中達也選手が連続で得点を奪い、2-0で勝利。UAEラウンドを2勝1分で終えます。
この勢いでオリンピック出場を決めたいところでしたが、ホームでのバーレーン戦で思わぬ落とし穴が待っていました。押し気味に試合を進めながらも、後半26分に失点。0-1で敗戦を喫してしまったのです。この時点で、バーレーンとUAEの2チームと勝点7で並ぶ結果に。日本は勝ち点を落とせない状態になってしまいました。
そんな中で迎えたレバノン戦。阿部勇樹選手のFKで幸先よく先制しますが、後半22分に同点ゴールを決められてしまいます。そんな苦しい状況を打ち破ったのは、現川崎のエース・大久保嘉人選手でした。失点の2分後にヘディングシュートをネットに突き刺し、勝ち越します。この得点を守り切り勝利すると、最終戦のUAE戦でも大久保選手の2ゴールの活躍で3-0の勝利。バーレンが最終戦でレバノンと引き分けたため、勝ち点13で日本はグループ首位となり、アテネオリンピックへの出場を決めました!
by JFA
迎えた本大会 不安な立ち上がりが勝負を分ける
日本代表はパラグアイ、イタリア、ガーナとのグループに入りました。戦前の予想ではかなり厳しい戦いが待っていると思われていました。大きな不安とともに迎えたパラグアイとの開幕戦。試合の入りに失敗した日本は、前半でまさかの3失点。OAの小野伸二選手が2得点、エースの大久保選手にも得点が生まれましたが、3-4で敗れてしまいます。
by JFA
立ち上がりに失点する難癖は2戦目となったイタリア戦でも露呈しました。開始7分で2失点。直後に阿部選手が素晴らしいFKを決めますが、前半37分にジラルディーノ選手にこの日2点目となるヘディングシュートを決められ、2試合連続で前半の内に3失点をしてしまいます。後半アディショナルタイムに高松選手の得点で1点差に詰め寄りますが時すでに遅し。2-3で惜敗した日本は2連敗となり、この時点で敗退が決定しました。続く3戦目はイタリアとパラグアイから勝ち点4を奪っているガーナが相手でしたが、大久保選手の巧みなヘディングシュートを守り抜いて1-0の勝利を挙げます。
最終的に、パラグアイは準優勝、イタリアは3位と死のグループだったことは間違いありません。しかし、開始早々の失点がなければ・・・と言いたくなる結果だったと思います。当時のメンバーで海外組は小野伸二選手1人だけ。大学在学中の選手も数人おり、チーム全体としての経験不足が如実に表れる結果となった大会でした。
選手たちのその後
by 日本の超サッカー情報
「失敗が人を強くする」という言葉がありますが、このアテネ五輪を戦った多くのメンバーはその後の日本代表の主力に成長しました。田中マルクス闘莉王選手や阿部勇樹選手。日本屈指のテクニシャンの松井大輔選手はその後の南アフリカW杯でベスト16の結果を残したチームの原動力です。パラグアイ戦で失点に直結するミスを犯した那須大亮選手は日本を代表するアツいDFになりました。成功の裏には悔しさあり。現在の日本代表の強さの裏にはアテネ五輪での悔しい敗退があったからかもしれません。