日テレ・ベレーザの15度目の優勝で幕を閉じた今季のなでしこリーグ。二度の4連覇を含むクラブ史上三度目の3連覇。なでしこジャパンに多くの選手を輩出しつづける名門クラブは、日本女子サッカー界の牽引役を担っている。
トップチームにあたる東京ヴェルディは、近年はJ2を彷徨いながらも、今もなお、古豪復活を期待する多くのファン、サポーターに愛され続けているクラブとして、日本サッカー界に影響を与えている。
ヴェルディという名を聞いて、かつての黄金時代を想起するサッカーファンも多いことだろう。
1993年 Jリーグ開幕節、その記念すべき試合に登場したヴェルディ川崎。日本プロサッカーリーグの幕開けを華々しく彩った強豪は、カズ(三浦知良)やラモス瑠偉、武田 修宏、都並 敏史、加藤 久らスター選手をスタメンに揃え、人気、実力ともに圧倒的な存在感を放っていた。
同年、鹿島アントラーズとのチャンピオンシップに勝利し初代Jリーグ王者に輝いたヴェルディ川崎は、カップ戦(ルヴァン杯/旧ナビスコ杯)と合わせ二冠を達成。翌年のチャンピオンシップでもサンフレッチェ広島を破り二連覇を達成、ナビスコ杯は三連覇を果たし、黄金時代を築いた。
黄金時代からの凋落、ヴェルディが歩んできた険しい道のりは、さまざまな憶測を呼んでいる。
1998年 親会社であった読売新聞社の撤退、2001年 川崎市から東京都へホームタウンの移転、2009年 日本テレビが経営撤退。経営難による規模縮小、それに伴うチーム力の低下。「ヴェルディは終わってしまったのか。」サッカーファンの誰もがそう感じたことだろう。
このインタビューでお届けしたいのは、負の歴史ではない。今もなお、一流選手を輩出し続けるヴェルディは、日本サッカー“育成の礎”として在り続けているのだ。
その功績を証明しているのが絶対女王ベレーザであり、J1の舞台で躍動する選手であり、世界に羽ばたいていった選手に他ならない。彼ら全てに共通していることがある。それは、”読売”の伝統である。1969年の創立以来、脈々と受け継がれてきたDNAは多くの一流選手を育てた。
今回インタビューに応じてくれたのは、2014年からテクニカルダイレクターとしてクラブに帰還し、現在はGMとしてヴェルディ再生に向け活動している竹本 一彦氏だ。
竹本氏は、ヴェルディの前身、読売クラブの黎明期に身を置き、育成から女子まで幅広いカテゴリーを指導。ガンバ大阪や柏レイソルなど他のクラブでGMを務めた経験を持つ、J1復帰へ向けて再建を担う仕掛け人でもある。
「我々の強みは育成にある。」今も昔も変わらない、受け継がれる”読売”の伝統に焦点を当て、今後訪れるであろうヴェルディ再生の未来像に想像巡らせてみたい。
読売クラブの黎明期
——まずは、ヴェルディの前身である読売クラブの黎明期についてお聞かせください。
(竹本)ここ(よみうりグラウンド)ができたのは1969年、もう50年近くになります。日本で一番長い歴史を持つサッカークラブです。当時は巨人軍の全盛時代でしたが、読売新聞社の故正力松太郎さんが「これから世界はサッカーだ。サッカークラブを作れ!」そこから始まりました。
読売巨人軍のフィロソフィーは紳士たれ、同じフィロソフィーを持ちながら、世界における日本を代表するサッカークラブ作りを目指しました。芝生のグラウンドが4面、当時はサッカー場を作ること自体が珍しかったですね。
サッカークラブの財産は選手です。選手を育てるという意味では、読売サッカークラブは自給自足のクラブと言ってもいいかもしれません。スクールから始まり、ジュニア、ジュニアユース、ユース、トップという育成組織を作る。当時から今でいうアカデミーを目指したサッカークラブでした。ここが原点であり、DNAとして今でも受け継がれています。
当初は日本テレビのチームでした。読売グループでしたから。そこから関東1部に昇格し、日本リーグ2部に昇格、難しい挑戦でした。さらに、日本サッカーリーグ1部に上がるためにトップチームは強化されてきて、指導者にオランダからバルコム氏を迎え、ジョージ与那城をはじめ、日系ブラジル人を入れて、個人のテクニックを大事にし、コンビネーションを作り上げていくというサッカーを目指しました。
プロサッカーがない時代、70年代、80年代。その当時から読売クラブは情熱に溢れているクラブでした。先輩後輩も無い、芝生の上でひたすらサッカーを楽しむ。トップチームのカテゴリーが上がるにつれて、クラブにはいろいろな才能が集まってきました。大学出身の加藤 久であり、堀池(巧)、武田(修宏)をはじめ高校サッカーから集まるようになり、そこにカズが入り、北澤(豪)がいて、ラモス(瑠偉)が成長して、タレントが育ってきました。
この頃から、従来の組み立てるサッカーに加え、テクニックとコンビネーションでの中央突破、個人のアイデア打開する、観ている人が楽しめるサッカーを目指すようになってきました。この頃から多くのタイトルを獲得することに成功し、プロ化への機運が高まってきました。
我々のDNAはここ(よみうりランド)で育まれ、ここで受け継がれてきました。これは女子も一緒です。当時はトップチームの練習が終わると、スクール生の練習が始まる。そのあと夕方から夜にかけて高校生の練習が行われます。今もそうですけど、すぐ横で行なわれているトップのトレーニング風景や練習試合を子供たちは間近で見学することができます。
ボールの持ち方やパスの出し方、テクニックを目で見る。時折、トップの選手が子供たちを招き入れて遊んでくれたりして、相手との駆け引きや、試合の進め方、攻撃のバリエーション、どんなプレーが良いプレーなのかということを子供たちが感じとる。こうして自然にDNAが受け継がれていく。この場所からそれが伝統として、読売クラブ、今のヴェルディ、ベレーザに紡がれてきました。
クラブ消滅の危機から15年
——2008年のリーマンショックをきっかけに拡がった金融危機の影響で、経営危機に陥った多くのJリーグクラブがありました。その翌年、ヴェルディはクラブ存続危機が囁かれていましたが、当時はどんな様子だったのでしょうか。
(竹本)その時起きたことは、読売グループが手を引いたということです。それは川淵 三郎さん(当時のJリーグチェアマン)とJリーグの理念のところで変わってしまった。親会社が無いクラブになり、経営危機に陥りました。
読売新聞が引いて、その後、日テレが引き継いでくれましたが、2009年に日テレはベレーザのネーミングライツだけになり、クラブ経営から手を引きました。そこから資本がグッと落ち込みました。そこで今の社長(羽生 英之氏)がJリーグから出向し再建をしながら今に至ります。お金が無くなったことで、やはり選手の質、外国人の質が落ちてしまい、練習環境も、93年、プロ誕生の時にオープンしたクラブハウスも一気に2分の1になってしまった。悲しい現実でした。
その中で、練習環境は良いとは言えないけど、この稲城の山の上の情熱は誰にも負けないぞという人たちが残ってくれて、子供たちを育てる、世界に飛び出る選手をつくる、日本代表にいく選手をつくる、その夢に共鳴している人たちが今でも働いています。
今の自分の仕事はJ1に戻ること、戻ることによって色々なものがついてくると思います。自分はガンバ大阪と柏レイソルで仕事をしてきましたが、やはりJ1は規模が違います。観客も多く、メディアの数も多くて、この盛り上がりを今の選手、スタッフに味あわせてあげたい。個人としては、ヴェルディがJ1に上がって日立サッカー場に行きたいですし、吹田にも行きたいですね。
——2009年のチーム存続危機からクラブを離れていた竹本さんは、他クラブで活動なさっていましたよね。
(竹本)ここ(ヴェルディ)に20年在籍していましたが、その後、ガンバ大阪で7年間、柏レイソルで8年間、15年空いて、その後1年間、FC今治のアドバイザーをしていました。その間、ヴェルディとベレーザのことは、敢えて見ないようにしていました。
羽生社長が再建に尽力されている中で、本当に潰れてしまうのではないかと心配でしたが、その時の自分は関わることができなかった。そしてまた時が経ち、再びご縁をいただくことになりました。再建に向けて、その礎になるのはやはりアカデミーだと。それを大切にしながらいくと。苦しいけど、まずはJ3降格を阻止しなければいけない。2014年9月にテクニカルダイレクターとしてヴェルディに戻ってきました。
なんとかJ2残留を果たして、その翌年から、みなさんの協力の元、考えを示しながらトップチームの編成に取り組んでいます。やはりこの世界は簡単には上がれないので、そのためにどうチームを方向づけるか。今年はスペイン人監督、スタッフを中心に舵取りをしていこうと思っています。
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