藤本淳吾選手のガンバ大阪への完全移籍が決定。長谷川健太監督の熱望による移籍する藤本のキャリアをまとめました。
挫折を味わった中学生時代
神奈川県大和市出身の藤本淳吾は、日本鋼管で活躍した元サッカー選手の父、藤本貢壽を持ち、 横浜マリノスプライマリーで小学生時代を過ごしました。中学1年生までマリノスの下部組織に所属していましたが、中学2年生に進級する時にメンバーに残れず、横浜栄FCを経て、桐光学園高校へ進学しました。高校サッカー選手権には縁がなく、全国経験は高校3年生時に出場した高校総体8強だけでした。
しかし、U-16、U-17日本代表に選出され、2001年にトリニダード・トバゴで開催されたU-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)に矢野貴章(名古屋グランパス)や阿部祐大朗らと出場も3戦全敗を喫しました。
川崎Fを断り、筑波大学へ
高校3年生時に当時J2だった川崎フロンターレからのオファーを父の助言と地元のマリノス以外なら大学進学と決めていたこともあり、筑波大学へ進学。1年生時からレギュラーとして、第51回全日本大学サッカー選手権大会を優勝し、翌年の第52回大会では決勝で駒沢大学から決勝点を決め、2連覇に貢献。
3年生時の第78回関東大学リーグでは4年ぶり14回目の優勝へ導き、大学4年間で大学選抜にも選ばれ続けました。
また、05年6月の第33回トゥーロン国際大会に参加するU-21日本代表メンバーに選出され、8月のユニバーシアード・イズミル大会では背番号10番の司令塔として日本を3連覇に導き、大会MVPと得点王に輝きました。
1年目からMr.エスパルスの10番を着けてプレー
by S-PULSE
大学時代の輝かしい実績で複数クラブのオファーが届くも、05年に強化指定選手でプレーした清水エスパルスを選択。強化指定時代に長谷川健太監督から練習中に叱責を受け、1人の戦力として見てもらえたことも決断した理由でした。1年目から着けた背番号は、前年に引退した“ミスター・エスパルス”澤登正朗の後継者として指名された背番号10を受け継ぎ、新人王を受賞し、第39回内閣総理大臣杯日本プロスポーツ大賞新人賞も受賞しました。
そして2年目の07年には日本代表にも選出され、08年夏に全治3ヶ月の大きな負傷から復帰したのは09年に入ってからでした。10年には右FWとして自身最多13得点を挙げ、11年に名古屋グランパスへ移籍し、14年には中学1年生まで所属していた横浜F・マリノスへ帰還する形で移籍を果たしました。そして16年1月にかつての恩師からの熱望によりG大阪への移籍となりました。
by ドメサカブログ
清水時代のような輝きをG大阪でも放ってほしいですね。G大阪のアジア王者に貢献する活躍に期待しましょう!