「KAZU」こと三浦知良
現在の日本男子サッカーにおいては、ワールドカップ出場は義務のような感じで、アジアを制しないと日本は弱くなったと言われる時代になった。そして、日本を代表する選手も海外でサッカーをするのが当たり前になってきた。しかし、この選手こそ日本人が海外でサッカーができる環境を作ったと言っても良い、日本の「レジェンド」だろう。2018年でプロ生活32年目を迎える選手のこれまでをお届けしよう。
「KAZU」の原点はブラジル
伯父が監督を務めるクラブチームでサッカーを本格的に習った知良少年は、その後静岡学園高校に進学するもわずか8ヶ月で単身でブラジルに渡り、1986年名門クラブのサントスFCとプロ契約を結んだ。ここが彼のプロとしての出発点になった。今ではJリーグでプロ契約を結ぶことが当たり前だが、当時の日本サッカー界には、Jリーグの様なプロリーグは無かった。ブラジルサッカーに4年間身を置いて、メキメキと力をつけていく。「KAZU」はこうして頭角を現していく。
Jリーグ発足間近のタイミングで名門読売サッカークラブへ移籍
1990年7月に「KAZU」は、日本でプレーすることを決断する。当時名門クラブとして名をはせていた読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎、現在の東京ヴェルディ)へ移籍する。最初はなかなか活躍する機会に恵まれなかったが、時間の経過とともに日本サッカーにフィットしていく。そして、1992年のJリーグカップでチームの優勝に貢献する。Jリーグ初年度のファーストステージこそ振るわなかったものの、オールスターの活躍をきっかけに調子を取り戻し、セカンドステージ、そしてJリーグ初代チャンピオンに導く立役者となった。
W杯敗退からイタリア行きを決断
1993年のワールドカップ予選で代表チームのエースとして活躍した「KAZU」は、後にドーハの悲劇と呼ばれたイラク戦に敗れ、ワールドカップ進出の夢がついえる。しかし、ここでめげないのが「KAZU」だ。アジア人としては初となるイタリア・セリエAのジェノアに移籍をする。当時のサッカー選手はJリーグで戦って成長するというのが主流だったが、「KAZU」の移籍には衝撃を受けたことを覚えている。しかし、デビュー戦となったACミラン戦で相手選手との接触で鼻骨骨折などをしてしまい、戦線離脱をすることに。のちにけがから復帰してセリエA日本人初ゴールも決めるも、結局イタリアで戦ったのはこのシーズンのみであった。
フランスワールドカップの代表に選ばれ本線行きを決めるも・・・
その後、Jリーグヴェルディ川崎に復帰した「KAZU」は、コンスタントに活躍するも、けがも多くなる。そんな中迎えたフランスワールドカップ予選、日本代表は本線行きを決めるも、「KAZU」は北澤と共に直前合宿後に本大会のメンバーから外れることになる。当時の岡田武史監督が名前を読み上げたシーンは、今でも時々テレビで見ることができるので、知っている人も多いだろう。
クロアチア経由Jリーグ復帰
代表落選後、ヴェルディからも年俸ゼロ円提示を受けた「KAZU」は再び海外でのプレーを選択する。今度はクロアチア・ザグレブだ。2年契約を結んでいたものの、結果が伴わず1年で退団し、日本に戻ることになる。日本復帰の場として選んだチームは、代表で一緒だった加茂周氏が監督をしていた京都サンガだった。このシーズンは17得点をあげ、Jリーグ通算100得点も達成。しかし、チームは2部降格が決まり、「KAZU」も2度目となるゼロ円提示を受けることになる。
シドニーFCに期限付き移籍でFIFAクラブ世界選手権に出場
京都を退団後、神戸で4シーズン半過ごし横浜FCに移籍する。横浜FCに移籍をした直後、オーストラリアから吉報が届く。当時FIFAクラブ世界選手権の切符を獲得していたシドニーFCからのオファーだった。指揮官は、Jリーグの創成期に市原でプレーをしていたリトバルスキ-氏が務めていた。全盛期の「KAZU」をピッチ上で見ていた戦友だ。そして、わずか4試合ながらポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権にも出場を果たす。
横浜FC復帰
その後横浜FCに復帰し、2006年度ではチームのJ1初昇格に貢献する。2007年はJ1で戦ったが、最下位に終わり、それ以後現在までJ1に昇格はできていない。
ここ一番を決めるところが「KAZU」
ここまで彼の軌跡をお届けしたが、「KAZU」の魅力は、何をやっても様になるところで、ここ一番では必ず何かをやってくれる選手であることだ。2011年3月に開催された「東日本大震災復興チャリティーマッチ」でも、後半37分に得点を挙げカズダンスも披露し被災地の皆様に勇気を与えたことは記憶に新しい。そして2012年には、FIFAフットサル日本代表にも選出され、フットサルながらワールドカップ出場を果たした。年齢を感じない動きでゴールを決めるなど、「KAZU」のすごさはここでも発揮された。
50歳でJリーガー
そして「KAZU」も2018年は51歳で迎える。ここまで彼は毎年最年長ゴールを決めるなど、日本サッカー界を盛り上げている一人だ。51歳でプロサッカー選手なんてこれまであり得ない話だ。一時期世界最高峰の選手と言われた選手であっても、さすがに50歳まで続けられる選手はいない。それだけ体のケアなど人一倍努力している賜物だ。「KAZU」が日本のスター選手としてはじめてイタリアでプレーをしたパイオニアで、これをきっかけに海を渡ってヨーロッパでプレーできる環境を整えたと言っても過言ではない。彼の中にサッカー選手としての終わりはないのだろう。彼が還暦でもプロサッカー選手として活躍できることが私の夢でもある。
三浦知良が新たなシーズンに向けて始動。 #PUMAOne #新たな高みへ https://t.co/LQW72o2sNx pic.twitter.com/VGXorRIC4Y
— プーマ フットボール (@pumafootball_jp) 2017年12月12日