シャルケ04在籍8年。鹿島アントラーズからブンデスリーガのシャルケに移籍したのが2010年の事。5年間で104ゲームに出場した後、2015年3月からはリーグ戦に一試合も出場できていなかった内田篤人選手。
今シーズン、ブンデスリーガ2部のウニオン・ベルリンに移籍しました。怪我からの復活を懸けたその選択肢の今後は如何に?
内田選手の略歴と共に、移籍先のウニオン・ベルリンの情報をご紹介致します。
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— BZ Berlin B.Z. (@bzberlin) 2017年8月26日
攻撃力に定評のあるSB
全国高校サッカー大会優勝経験のある清水東高校を卒業後、U16から各年代の日本代表に選出されていた内田選手は、2006年に鹿島アントラーズに入団します。
鹿島アントラーズは既にJリーグ優勝4回を誇る強豪クラブでしたが、そのクラブで高校卒業ルーキーとしてクラブ史上初のスタメン出場を果たす記録を残します。
その後4年間は鹿島アントラーズの主力選手として右SBのポジションで出場を続けます。
攻撃的なSBとしての能力には定評があったものの、守備に関する能力は攻撃に比較して劣り、相手攻撃陣に突破を許しても早い段階で諦める姿勢が多いなど、攻守のバランスは決して良いSBとは言えませんでした。
日本代表として選出された2010年のW杯南アフリカ大会で、右SBとして本戦に出場したのが今野泰幸選手(ガンバ大阪)、駒野友一選手(アビスパ福岡)という、守備力の安定した選手であった事からも、その事実は物語られています。
その後2014年のW杯ブラジル大会では、グループリーグ全試合にスタメン出場しましたが、チームは3戦未勝利でグループリーグ敗退という結果だった事も、多くの皆さんがご存じの事実です。
入団5年目の夏、鹿島アントラーズからブンデスリーガのシャルケ04に完全移籍を果たします。守備力に難のある内田選手が、屈強な選手が揃いハードな肉弾戦に定評のあるブンデスリーガで通用するのか、不安視される海外への挑戦でした。
by rbb24.de
フィジカル能力の向上がブンデスリーガ出場の必要最低条件
シャルケ04へ移籍後、リーグ開幕から数カ月で右SBのポジションを確保し、移籍初年度はリーグ戦26ゲームに出場果たす等、順調な滑り出しでブンデスリーガに定着しました。
ブンデスリーガに移籍した多くの日本人選手が異口同音に口にするのが選手のフィジカルの強靭さです。ボールゲームとは言え、ピッチ上を走りまわり、相手選手と接触しながらゲームを展開するサッカーは、ある種格闘技の側面も有します。
Jリーグでは、試合前のチーム内の練習試合等で、チームメイトの怪我を恐れてハードなタックルは避けられている傾向にありますが、ブンデスリーガではチーム内の練習試合でさえ真剣勝負で、ガツガツ体当たりして、リーグ戦同様にぶつかりあうと言われています。先ずクラブ内でライバルに勝つ事から勝負が始まっているという緊張感を感じます。
必然的に、Jリーグでの環境から、ブンデスリーガでのゲーム参戦意識は変革する必要があり、相手のフィジカルコンタクトに負けない為に、自らの身体能力も高めない限り、ゲームでの活躍はおろか、スタメンで出場する事も叶わないと言われています。
Jリーグ時代から守備力の難が指摘されていた内田選手でしたが、このブンデスリーガのハードな環境に適応する為に、見るみるうちに守備の地力も伴って行きました。
多くの日本人選手が経験する異文化への驚異から、出場と勝利の為の適応を成し遂げて、足らざるを補完し、ブンデスリーガーとしての地力をつけて行かざるを得ないプロセスを、内田選手もこなして行きました。
その結果、移籍して5年間は多くのゲームに出場し、攻守にバランスの取れたSBとしての成長を遂げて行ったのです。
#内田篤人 選手が #シャルケ 在籍期間中に奪った2⃣ ゴールはこちら⚽️⚽️ #ウッチー との多くの思い出は忘れません😭 またどこかで!! #うっちー7年間ありがとう pic.twitter.com/96kj6YMIJ9
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シャルケ04というクラブ
シャルケ04というクラブは、ヴェストファーレン州ゲルゼンキルヒェンに所在して100年以上の歴史を誇る総合スポーツクラブです。
ブンデスリーガのクラブ名は、バイエルン・ミュンヘンや、アイントラハト・フランクフルトなど、所在都市名で呼ばれる事が多いのですが、シャルケ04のクラブ名は所在地ではありません。
ゲルゼンキルヒェンという町は、かつて炭鉱で栄えた町で、炭鉱夫たちが集っていたパブの名前がシャルケと言う名前でした。その炭鉱夫たちがサッカーを始めたのがシャルケ04の起源と言われています。
Jリーグ2部の松本山雅FCに似ています。山雅という耳慣れない単語は、かつて松本市内にあった喫茶店の名前で、そこに集っていた若者がサッカーを始めたのが松本山雅FCの起源になっています。
ブンデスリーガでは古参のクラブですが、今までカップ戦を制した経験はあるものの、リーグ優勝を果たした事は一度もありません。
2部に何度か降格した事もありますが、1部にほぼ定着している中堅の強豪クラブであると言えます。内田選手は2010年から今年の夏まで、このシャルケ04に所属していました。
然し、右膝の怪我を負った事から、2015年のシーズン以降3年間は、リーグ戦に一度も出場する事なく、リハビリに明け暮れていました。時期を同じくして日本代表にも選出されなくなりました。
この間、リハビリに明け暮れ、漸くプレイ可能なレベルに復活した今期、決意の移籍を選択しました。
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— FCシャルケ04 (@s04_jp) 2017年8月22日
ウニオン・ベルリンというクラブ
今夏内田選手が移籍したウニオン・ベルリンは、正式なクラブ名称を1.FCウニオン・ベルリンというベルリンの所在するサッカー・クラブです。
日本代表の原口元気選手が所属するヘルタ・ベルリンもドイツの首都ベルリンに所在するクラブですが、ウニオン・ベルリンとヘルタ・ベルリンには決定的な違いがあります。
それは、ヘルタ・ベルリンが西側ベルリンのクラブであるのに対して、ウニオン・ベルリンは東側ベルリンに創立されたクラブだという点です。冷戦時代の東側に属していた国家のクラブとして始まったクラブという歴史を有する事が特徴です。東西に分裂していた国家であったドイツならではの歴史を感じます。
1部に定着し、巨大なホームスタジアムを有し、ベルリンを代表するクラブとして存在するヘルタ・ベルリンに比べて、ウニオン・ベルリンは陰に隠れた存在を否めません。
やはり旧東ドイツのクラブであったという経緯が大きな要因で、ブンデスリーガの1部に昇格した経験はありません。2009年に3部から2部に昇格し現在に至っています。
昨シーズンの成績は2部4位ですので、あと一息で初の1部昇格が目前でした。内田選手の活躍で、クラブ史上初のブンデスリーガ1部に昇格する事を期待したいものです。
現監督のイェンス・ケラー監督は、かつてシャルケ04の監督でもあった子弟関係の復活になります。
ホームスタジアムは、ルテ・フェルステライで、収容人数は22.012名です。
2015年6月に右膝の手術をしてから、2016年12月のUEFAヨーロッパリーグのレッドブル・ザルツブルグ戦以降、実践から遠ざかっている内田選手にとって、シャルケ04に所属して出場機会を待つよりも、1カテゴリー下のクラブで出場できる可能性を追求した移籍と言われています。
今シーズンのブンデスリーガ2部には、浦和レッズから関根貴大選手もFCインゴルシュタット04に移籍して既に初出場を成し遂げました。(拙著 https://shooty.jp/11679) 内田選手の活躍も期待して、ブンデスリーガ2部のゲームにも注目してみて下さい。
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— 1. FC Union Berlin (@fcunion) 2017年8月23日