長年、辛口評論家として日本サッカーへ歯に衣をきせぬ物言いを続けているセルジオ越後氏。ブラジルから日本へやってきた同氏のこれまでのサッカー人生の歩みを紹介します。
by サッカー速報
コリンチャンスにも所属した日系二世
1945年7月28日にブラジル・サンパウロ出身のセルジオ越後氏は日本から渡ってきた両親の元に生まれた日系二世でした。17歳の時にサンパウロの名門コリンチャンスユース(ジュニオール)のテストに合格。同期には元ブラジル代表のロベルト・リベリーノがいました。そしてプロ契約を果たすと右ウイングを主戦場にプレーし、1964年東京五輪のブラジル代表候補にも名前が挙がりました。
サラリーマンも経験して来日を果たす
約1年プレーしたコリンチャンスを離れ、ミナスジェライス州2部のトレス・ボンターノ、サンパウロ州2部や1部のクラブでもプレーしましたが、兄の紹介で鉄骨関係の企業へ入社。セールスマンとして2年ほど働いたそうです。そして日本の社会人チームからオファーが届き、上司の説得もあり両親の母国である日本へ渡ることを決意しました。
日本サッカーを変えるため来日
日本語が話せなかったセルジオ越後氏に「日本のサッカーを変えてほしい」と情熱的なオファーを出したのは湘南ベルマーレ(J1)の前身、藤和不動産サッカー部に1972年入部。当時の日本サッカーリーグ(JSL)初の元プロ選手として大きな話題となりました。そして約3シーズン、プレーし74年に引退。引退後は75年に永大産業サッカー部コーチを務め、78年からは日本サッカー協会公認の「さわやかサッカー教室」の指導者として日本全国を回り、1000回以上の教室を開催し、約60万人の子供たちと接してきました。参加者の中には後にJリーガーになった選手も数多くいます。またテレビ番組の「天才たけしの元気が出るテレビ」でもJリーガーを養成するコーナーで監督を担当したエピソードもあります。
辛口評論家として、アイスホッケーチームのディレクターとして活躍中
サッカー教室での巡回指導が評価され、2006年に文部科学省から生涯スポーツ功労者表彰、13年には外務大臣表彰受賞の栄誉が与えられました。そしてテレビ、雑誌などで辛口評論家として日本サッカーのために時おりジョークをまじえながらも熱い苦言を話し、活躍の場はサッカーだけでなく06年にアイスホッケーチーム、日光神戸アイスバックスのシニアディレクターやJAFA日本アンプティサッカー協会スーパーバイザーに就任と日本のスポーツ界の発展のため精力的に活動中です。
SOURCE : セルジオ越後オフィシャルサイト | Wikipedia