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「今あるサッカー界の常識の逆を行く」J3 藤枝MYFC 元社長 小山 淳は、破壊者か革命家か <インタビュー>

勝村大輔

2018/02/20 08:00

2018/02/19 21:45

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NEWS

はじめてのコンタクトは昨年(2017年)5月まで遡る。かねてから興味があった藤枝MYFC 小山淳社長のインタビュー申請だった。

J3リーグ発足と同時にJリーグ加盟を果たした藤枝MYFCは、藤枝市、島田市、焼津市、牧之原市、吉田町、川根本町に本拠地を置くサッカークラブ、”サッカー王国 静岡県”において、清水エスパルス、ジュビロ磐田に次ぐ3つ目のJリーグクラブとして知られている。(2017年に4つ目のJリーグクラブにアスルクラロ沼津が加わった。)

2009年7月、クラブ創設と共に代表取締役に就任した小山氏は当時32歳。社会人リーグからJリーグに導いた若き社長の経営手腕に迫ってみたかったからだ。

対談に備え、小山氏へ3つの質問を用意していた。

1つ目は「なぜその若さでサッカークラブ創設という決断に至ったのか。」サッカーどころ藤枝で育った小山氏は、13歳以下の日本代表副キャプテンとして世界少年大会で優勝、U-15日本代表に選出。中田英寿氏とプレーするなど、アンダー世代からエリート街道を突き進んできた。しかし、早稲田大時代に大怪我により選手生命を絶たれることになる。その後、何に感化されどう行動に移されたのか。小山氏のこれまでの軌跡を辿る。

2つ目は最大の謎である”MYFC”という聞き慣れないクラブの名称に迫るものだ。MYFC(My Football Club)とは、ネットオーナーたちによって取り交わされる議論・投票により、クラブ運営の決定事項を可否するという仕組みである。この「ネットオーナーシステムの稼働状況について。」である。

3つ目はJ3リーグ初年度の2014年シーズンを11位で終え、その後、順当に勝ち点を積み上げ昨今の戦績は2年連続7位と中位につけている。地域リーグからJリーグへ、わずか5年間で導いた「強化方針について」である。

ところが日程調整に四苦八苦していた矢先に、驚愕のニュースが飛び込んできた。それは『小山社長解任 取締役就任』という報道だった。

対談が実現したのは衝撃の報道から3ヶ月後、品川のホテルで対談は執り行われた。

新たに加えることになった「小山氏の今後の活動について。」この4つの質問を前に、小山氏は静かに語りはじめた。

——昨年10月に社長退任(取締役就任)というニュースを拝見しましたが、小山さんがこれまで培ってきた藤枝MYFCでのエピソードや今後の展開についてお話を伺っていきたいのですが、まずは退任を決めた心持ちをお聞かせください。

(小山)ある意味、J3参入に関しては、リーグ発足と同時に昇格を果たせたというラッキーパンチもありましたが、そこまでクラブを持っていくことができました。この判断(社長退任)に至ったのは、僕自身が経営責任者をはじめ、何から何までやる必要性がなくなったということとスタジアム改修への地域との連動に適した藤枝の大きな企業から引き受けたいとお願いして来てくれたこと。また、ここ(藤枝)で鍛えられたスタッフが受け継ぐという形ですね。

謎多きクラブ“藤枝MYFC”

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——では、藤枝MYFCについてお話を進めていきますね。“MYFC”という一風変わったチーム名からも、一般的なサッカーファンの目線で見て、一見、謎のクラブのように感じている方々も多いと思いますが。

(小山)そうですね。変わっていると思います。僕は今ある“サッカー界の常識”の逆をいけば上手くいくと思っています。ですから、打つ手打つ手が基本的に理解されづらい。

たくさんの地域プロスポーツクラブを作りたいと思ったきっかけが、22、3歳の頃、世界放浪の旅をしていた時のことでした。僕はアンダー世代では代表選手でしたが、10歳の時に、「僕は日本サッカー協会の会長になる」と親に宣言しました。そのために親の「日本協会は早稲田閥だから」という言葉を真に受け早稲田大に行きました。大学はサッカー推薦で入学できたのですが、大怪我をしてサッカーを諦めました。サッカー協会の道や、日本サッカーを世界レベルにするという夢も絶たれ、人生の目標を失いました。当時の僕を見た親は、自殺するのではないかと心配していたそうですが、大学を辞めて、1年間バイトして120万円貯めて世界放浪に出ました。

その時に、貧しい国の人々を目の当たりにして、サッカーできなくなったぐらいで失意の旅だと言ってぬけぬけと生きている自分に恥ずかしさを覚えました。日本人として生まれたことが、これほど恵まれていたのかと思い知りました。それならば、今ある自分の立場を生かして、何か新しいことを成功させたい。そして世界中に広めたいと思ったのです。

その後、33か国を巡る世界放浪の旅から戻り、ITの会社を立ち上げました。そうこうしているうちにまた“サッカー熱“が出てきてしまいサッカーマガジンにプレゼンの機会をいただき、Webサッカーマガジンをやりましょうという話になりました。

当時も先進的なことをやりました。例えば、サッカーマガジン60年分をスキャンしてネット上に無料解放する企画やブログサービスも始めました。好きな選手の名前を登録しておけば毎日日替わりでそのブログの表紙にその選手の写真がさしこまれる。それは結局Jリーグからアウトがでてしまいましたが、サッカーマガジンで感じたのは、ひとりのカメラマンは1試合2000枚近く写真を撮ります。採用されるのは、その中の1枚です。ということは1999枚が無駄になっているのです。それを何とか生かしたかったんですけどね。

そんなある日、スタッフから、イギリスですごく面白いことをやっているグループがあると聞きました。ネット上で1万2000人の賛同を集めて、1人1万円の会費を募り、1億2000万円集めクラブを買収、投票で運営しているという話。

——それが『マイフットボールクラブ』という形ですね。

(小山)はい。最初に無料会員を募って、選手の補強などの可否を投票したり、あとは予算を配分して何に使いますかなど、そういうことを投票で決めます。そもそも無料会員も3、4000人しかまず集まらず、その後、有料化したら、60人ほど集まってもらえましたが、その規模では結局何もできませんでした。余力も無い低空飛行でしたが3、4年は継続しましたが、敢えなく閉鎖することになりました。

今でもその企画自体は面白いと思っています。当時はまだスマホが普及してなかったので、今ならスマホを活用してもっと面白いことができるのではないかと考えています。あともう一つ学んだのは、イギリス人はその掲示板にリーダーを置かず、誰もが自由にディスカッションできるという仕組みを採用していましたが、その仕組みは日本人に合っていなかったように感じました。いつかまた復活したいなとは思っているんですけどね。

——MYFCという試みに可能性を感じますね。

(小山)力不足でしたね。でも微妙に当たることもあれば外すこともある。惜しいんですよね。(笑)

——藤枝MYFCで行った面白い取り組みがあれば教えてください。

(小山)藤枝の戦術は一瞬見て、アキバオタク?という風貌のサッカー経験ゼロの分析家に4年間担当してもらいました。これはJリーグクラブの中で前例がありません。彼との出会いは、元サッカーマガジン編集長の北條聡さんや担当の永原さんからの紹介によるものでした。世界のサッカーのトレンドがすごくわかりやすく解説しているブログがあると。「これはすごい!」と思いすぐに連絡を取りました。当時、僕たちは東海リーグに所属していましたが、すぐ彼に試合を観戦してもらい、戦術の分析を依頼しました。

当然、現場では「サッカー経験ゼロなんて認めない」という雰囲気がありましたが、先進的な選手にお願いして彼を含めて3人で会うことになりました。そうしたら、「これまで幾つものJリーグクラブを渡り歩いてきたけど、これほどわかりやすく伝えてくれる人はいない。」と驚いていました。こうした経緯から、Jリーグ参入初年度というタイミングで「選手が伸び、チームも伸びる未来志向のサッカーを考えて欲しい」という正式な依頼をするに至りました。

このプロジェクトの賛同者のひとりが現監督の大石篤人氏でした。大石監督と6年で優勝させようと決めました。1年目はコーチやりながらS級ライセンスの取得。2年目に正式に監督になってもらいました。そして昨年、一昨年と2年連続で7位でしたが、昨年は経営移行の引継ぎの混沌がなければ2位は可能だったのではないかと予想しています。リーグ(J3)の中では圧倒的に選手の年俸が低い我々でも7位(17チーム中)になれるわけです。彼(戦術担当)と監督とのディスカッションを深めていけば、僕は、勝ち星をコントロールできると思っています。

彼(戦術担当者)は、もともと運動嫌いで、当然、サッカーにも興味がなかったそうです。中一の時にJリーグ開幕戦(ヴェルディ川崎vs横浜マリノス)をたまたまテレビで観たそうですが、その試合に感動して、以来、彼はサッカーが好きになり、それから1日2試合、多い日は3試合、見た試合の分析を全てノートに書き溜めていたそうです。いつしかそれがブログへと変わり、メディアの目に留まったというわけです。

13歳から25年間それをやりつづけている。彼は相当な変人でもあり、Jリーグが生み出した申し子ですよね。まだ今のところ、僕たちはJ3でしか携われていませんが、これからJ1、J2の舞台を経験することができれば、日本のサッカーがもっと面白くなるでしょうし、レベルアップにつながるのではないでしょうか。

サッカークラブの経営者こそ“真摯たれ!”

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——サッカー王国“静岡”には清水エスパルスやジュビロ磐田、昨今ではアスルクラロ沼津がJ3に参入し、JFLの強豪HONDA FCが浜松に拠点を置いています。藤枝はJ3で奮闘していますが、やはり高校サッカーの印象が強いですね。

(小山)そう思います。僕は高校サッカーの町だと感じていて、僕も卒業した藤枝東であり、藤枝明誠高校、藤枝順心は女子で強いですし。高校サッカーで発展してきた町なので思いっきり新しいトレンドに乗り遅れましたね。むやみやたらにJリーグ入りを目指すことに魅力を感じませんが、日本サッカーのトレンドはやはりJリーグだと思います。サッカーにおいて藤枝は歴

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史ある街でしたが、高校サッカーに固執するあまりに清水に抜かれ、浜松、磐田に負けて、ものすごい悔しさを感じました。高校サッカーを大いに尊重しながら、トップリーグで台頭できるチームをどう作っていくかというのは、10年前から考えていました。

——その高校サッカーの街において、どのようなプレゼンテーションをして、たくさんの企業の賛同を集めることができたのでしょうか。

(小山)3、4千社は回りました。97%位の人たちから絶対無理だと言われました。ジュビロもエスパルスもあるし無理に決まってるだろみたいな感じでしたね。親身になってくださり、やめた方がいいと教えてくれた人もたくさんいました。「大人が無理と言って、子供たちに夢を描けと言えますか。」と5年ほど訴えつづけましたね。それでも何とか4億円ほど集めることができました。そのお蔭でJ3 に入れることができて、今年で5年目です。将来的には育成に力を入れて地域で活躍する、あるいは世界で活躍する人材を育てる。その過程でまずはJ2に上がりたいですね。

僕が考える勝手な持論ですが、サッカークラブをやる人は嘘をついてはいけない、ネガティブ思考はダメだとか、一言で言うと真摯さが必要だと思っていて、なぜなら、決して経済的に恵まれているとは言えない地方にもかかわらず、500社もの株主スポンサーにご協力いただいているのですから。責任と使命感なくして成長は難しいです。

今後の活動について

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——小山さんの今後の展開についてお聞かせください。京都で事業を行うという話を耳にしましたが。

(小山)京都はですね、元々、京都を中心にサッカースクールとサッカークラブをやったアミティエというクラブがあって、スクールは関西圏で生徒数が4000人ほど、ベトナムで2000人ほどいます。サッカークラブとしては関西で2位や3位という実績はあるものの、現在は、関西1部で停滞しているのが実情です。元々、理事長と知り合いだということもありますが、このタイミングで勝負に出たいというオファーを受けたという形です。

僕はスクール事業とクラブ経営を分けて考えています。僕はスクール事業は得意ではありませんので、経営パートナーに一括してもらい、クラブ経営に専念しています。ですので、アミティエも同様にスクール運営は任せて、昨年からクラブ経営に携わるようになりました。本格的な始動は今年からですね。

——小山さんの今後の展開、そして日本サッカーの発展に必要なことはどうお考えでしょうか。

(小山)日本のサッカーの発展のために必要なことは、クラブ経営者を育てること。そして、指導者を育てることが大事。この2つがポイントだと思います。だから僕はここに力を入れていきたい。やはり日本と海外とは仕組みが違いますので、海外の真似ではなく、日本ならではのクラブ経営を模索していくべきだと思います。

——本日はお忙しい中ありがとうございました。

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小山 淳(こやま じゅん)
1976年10月25日生まれ
出身地:静岡県藤枝市
藤枝東高校→早稲田大学中退

藤枝中時代、13歳以下の日本代表副キャプテンとして世界少年大会で優勝。U-15日本代表として中田英寿らとプレー。早大進学後に左足首の手術失敗により選手生命を絶たれる。世界33カ国放浪の後、25歳時IT業界へ転進、2002年に株式会社Jプレイヤーズを創業(現15期)。2009年に「株式会社藤枝MYFC」を創業、5年でJリーグへ昇格させ、2017年譲渡。現在様々なスポーツ企業への投資、支援、経営を行っている。

今回のインタビュアー勝村大輔氏のサイトでインタビュー後記を掲載しておりますので、そちらもご閲覧くださいませ。

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