神奈川県の中央に位置する小さな街、大和市が、我こそは『女子サッカーのまち 』と声を挙げる由縁は3つある。
まず1つ目に挙げるべきは、1988年に発足した大和シルフィードの存在価値にある。中学生チームとして活動を開始した大和シルフィードは、全国の舞台で名を馳せてきた名門クラブであり、女子サッカー黎明期の最中、若年層のプレー環境の整備に尽力してきたクラブのひとつに挙げられる。川澄奈穂美選手(シアトル・レインFC/アメリカ)や上尾野辺めぐみ選手(アルビレックス新潟レディース)をはじめ、数多くの日本代表選手を輩出し続けるその貢献度は、女子サッカー育成の祖といっても過言ではない。
そして2つ目は、上に並べた大和市に所縁のある選手が、なでしこジャパンの一員として活躍した、2011年ドイツW杯において世界制覇を成し遂げた快挙にある。この快挙を記念して、市内では優勝パレードが催され、大和駅前広場には、彼女たち功績を讃えるモニュメントが建てられた。その広場は、”なでしこ広場”改称され、他にも駅前から続く公園通りを”なでしこ通り”と名付け、既存のホームスタジアムを”なでしこスタジアム”と改名するなど、市を挙げて女子サッカーを盛り上げる姿勢を示している。
そして最後に挙げるのは、2014年、新たにトップチームを設立し、本格的になでしこリーグ参入を目指す、新生大和シルフィードである。行政の絶大なるバックアップを背に受けて、創立4年目を迎えた今シーズンは、チャレンジリーグの舞台で凌ぎを削っている。
今回インタビューに応じてくれた小野寺志保さんは、女子サッカー黎明期を駆け抜けてきたレジェンドの一人である。長きに渡りべレーザ(現:日テレベレーザ)の歴史を紡ぎ、なでしこジャパンの一員としてオリンピックの舞台で活躍した彼女は、現在、生まれ故郷のスポーツ発展のため、大和シルフィードGKコーチとしてチーム強化に携わるかたわら、市職員として行政とのパイプ役を買って出て、影の立役者としてシンデレラストーリーを編むべく奔走する。
当インタビューでは、黎明期から最盛期への道程を知る小野寺志保さんのキャリアを振り返りながら、過渡期に立ち向かうための画策についてディスカッションを試みてみた。
ボールを掴むことから始まったサッカー人生
©大和シルフィード
——小野寺さんがサッカーを始めたきっかけを教えてください。
(小野寺)私は生まれも育ちも大和。本当は、生まれは相模原ですけど、生まれも育ちも大和だと言ってしまう時もあります。(笑)寡黙な子供でしたね。人と触れ合うのが苦手で、友達といえばボールでしたので、ボールを壁に当てキャッチする。これを永遠と繰り返す変な子供でした。
私はどちらかというと野球をしたかったのですが、女の子は入れないよと言われ、サッカーには、ボールを取るゴールキーパーというポジションがあることを教えてもらいました。サッカーの「サ」の字も知らなかったのですが、近所の女の子について行って、そこで出会ったのが、女子サッカークラブ『西鶴間レディース』でした。その日のうちに入団を決めて、家に帰ってから両親にサッカーを始めると宣言しました。
——西鶴間レディース時代に全国優勝しましたよね。これを契機に更に先のサッカー人生を歩んでいくわけですね。
(小野寺)いえ。何の迷いもなくソフトボール部に入部しました。(笑)小学校を卒業する時に、もう女の子がサッカーをする場所はないと思い込んでいましたし、もともとは野球をやりたかったので。そこで目の当たりにしたのが、上下関係の厳しさでした。それでは試合に勝てない。そんなもどかしさがあって。
その時ふと、小学校の時代に全国優勝した時の楽しさを思い出して。またサッカーしたいなと思っていた時に、たまたま本屋さんで目にしたサッカーマガジンにベレーザ優勝という大きな記事を見つけました。ここで初めて大人にも、女子サッカーがあることを知りました。すぐに電話をかけましたね。そしたら入団テストがあると言われたのですが、どうしても今すぐにサッカーがしたいと伝えたら、それなら練習生として来てもいいよと言われ、入団が決まりました。
——そこから本格的なサッカー人生が始まったのですね。
(小野寺)世界がガラッと変わりましたね。高校の授業が終わって、電車に通って練習場へ行き、毎日練習が18時半から20時まで。そのあと22時まで自主トレをして。帰宅するのは23時を回る、サッカー一色の生活でしたね。そして、日本女子サッカーリーグ(Lリーグ)が開幕しました。
——Lリーグに参戦し、華々しいサッカー人生を歩むことになった小野寺さんですが、なぜ大学進学を決めたのでしょうか。
(小野寺)高校を卒業する時に、当時のベレーザの竹本監督が、こうおっしゃっていました。「今はまだ就職先を用意することができないから、4年間大学に行って選手寿命を延ばした方がいい。4年先には就職先も用意できるだろう。」という話でした。その言葉通り、大学を卒業する頃に、西友がスポンサーについてくださることになり、私はその西友に就職が決まり、仕事をしながらサッカーを続けることができました。
黎明期に光を当てた、キャリアのハイライト
©大和シルフィード
——圧倒的な強さを誇るベレーザでプレーを続け、日本代表に選出。そして遂に、オリンピックに出場果たしました。
(小野寺)最初に女子サッカーが正式種目になったのが、1996年のアトランタ大会でした。この時はもう女子サッカーがオリンピック行けるというワクワク感でいっぱいでしたね。たくさんの報道陣に見送られて現地入りしました。ところが結果は散々で、帰国した時には、報道陣が誰もいなかった。オリンピックは、やはりメダルを獲らなければ注目されません。
そして次のシドニー大会は出場を逃してしまいます。それに追い打ちをかけるように、相次ぐスポンサー撤退。チームの存続危機に直面しました。やはりオリンピックに行かなければダメだ。そうしないと女子サッカーが消えてしまう。当時の代表選手全員が痛感しました。
アテネ大会までの4年間は代表メンバーもほとんど変更がなく、集まる度に、絶対やらなきゃという思いが膨らんで、普段のリーグではライバル同士ですが、代表チームとしての結束が強かったですね。仲間意識が高くて、それでいてみんな貧乏で。(笑)その頃の試合を、たまたま川淵三郎(当時のJリーグチェアマン)さんが、御覧になられて、女子サッカーのひたむきさを感じてくださり「これからは女子だ、困ったことがあったら何でも相談してくれ」と言ってくれたのです。
その時、私が困っていたことは、不景気の影響で、勤務体制が固定給からアルバイトに切り替わったことでした。普段は朝から夕方まで働いて、練習に向かうのですが、代表戦の期間は働けないので、お給料が頂けないのです。ほとんど選手がこのような状況でしたので、川淵さんにお願いしたことは、代表の遠征に行った時はアルバイトができないので、それと同じくらいの日当がいただけないでしょうかと。なんだ、それぐらいやってやるみたいな感じで、女子サッカーにまつわる環境が少しずつ変わってきました。大好きなサッカーという種目がなくならないように、後ろに繋げていきたいという一心で迎えたアテネ大会。そういった意味でも意義深い大会でしたね。
大和シルフィードに託した想い
©大和シルフィード
——現在は、大和シルフィードのGKコーチとして、選手の育成に尽力されていますが、シルフィードの成り立ち、並びに運営について教えてください。
(小野寺)2014年になでしこリーグ参入を目指し発足しました。本来であれば、神奈川県3部リーグからのスタートになりますが、既存の中学生チーム、大和シルフィードのトップチーム扱いで、神奈川県1部リーグからスタートすることになりました。そのリーグではなかなか勝てなかったのですが、その頃に、日本女子サッカーリーグから「チャレンジリーグ参入を希望するクラブがあれば手を挙げよ。」という通達があり、大和シルフィードは立候補する運びになりました。本来であれば神奈川県1部リーグを優勝して、関東リーグで優勝してというステップを踏まなくてはならないところを、書類審査を通過して、参入戦も無事勝つことができて、チャレンジリーグ参入が決まりました。行政のバックアップが強いところが高評価につながったと聞いています。
——シルフィードはどのような形態で運営しているのでしょうか。
(小野寺)NPO法人です。
——女子サッカー界は、なぜNPO法人という形態をとるクラブが多いのでしょうか。お客さんを集めて、お客さんを楽しませる。なでしこリーグという形をとった以上、興行であるべきという意見が一般的だと思います。慈善事業なのか、スポーツ事業なのか、あくまでも興行なのか。大和シルフィードはどのような立ち位置を目指しているのでしょうか。
(小野寺)現時点での大和シルフィードは、簡単にいうと株式会社を運営するだけの人員が足りていません。ただし、法人格はとらなければいけないので、一番取りやすい形であったのだと思います。でもこれから2部を目指す上で、もっと大きな資金を動かしていくのであれば、形も変えていかないといけないと思いますし、本当の意味でのクラブ経営にシフトすべきだと考えています。
——今後どういったクラブ運営を目指しているのでしょうか。
(小野寺)行政に頼りきりではなく、大和シルフィードが主導的に活動することが理想だと考えています。あくまでも私たちが、『女子サッカーのまち大和』の牽引役であること。やはり行政は中立の立場ですので、守らなければならないものも多いわけですからね。
——そのためにも、2部リーグを目指していきたいということなのですね。
(小野寺)そうですね。その中で私が密かに思い描いている構想があります。2部リーグに上がって、川澄ちゃん(川澄奈穂美選手)、上尾野辺ちゃん(上尾野辺めぐみ選手)とか忍(大野忍選手)ら知名度が高く、大和に所縁のある選手を大和シルフィードに招聘する。さらに関心を集めて盛り上げていきたいと考えています。
——でも、なぜそこまで勝ち急ぐのでしょうか。ムーブメントを築き上げる画策は大事だと思いますが、一時的な盛況はかえって停滞を深刻化させる恐れもあります。まずは、経営基盤を固め、継続的な集客を実現して、スタジアムに訪れた観客を楽しませ、リピートを促進し熱狂を作り出す。上位リーグ所属に相応しいクラブ運営をすることが先決ではないかと。
(小野寺)私が心配しているのは、行政のバックアップは時限的な可能性があるということです。もし今、切り離されてしまったら、ポツンと取り残されてしまい回っていきません。そうなってしまうと、『女子サッカーのまち大和』という構想は続いていかない。ですので、市が支えてくれている間に、もう一段上がらなければいけない。これが勝ち急ぎたい理由です。確かに、これまで長年築いてきた大和シルフィードという母体を想えば、育成に尽力してきたこれまでのペースで進んでいくことも大切だとも考えています。それは確かに両方思う時がありますね。
——どうせやるなら、理想を追求したい!熱い思いを感じますね。
(小野寺)はい。女子サッカーだけが盛り上がれば良いのではなく、大和シルフィードがサッカーを通じて市民スポーツを盛り上げ、市民の方が楽しめるような形を築いていきたいと思います。
セカンドキャリアに揺れる後輩に向けて
©大和シルフィード
——なぜそこまで使命感を持っているのでしょうか。選手を引退して、セカンドキャリアを歩み始めるまでに、心の葛藤はありましたか。
(小野寺)35歳で選手を引退して、夢を失っていました。何の悔いもありませんでしたが、その次の日から、サッカー選手ではない小野寺志保の存在価値がわからなくなりました。それが怖くて。その時、私は“夢先生”といって、全国の小学校を飛び回りながら、夢の大切さをお話する仕事をしていました。その仕事は楽しかったし、やりがいもありましたが、今、自分が話している夢は、過去の夢であって、今の夢は何だろうかと思い始めました。
学校の先生もいいかな。歌が好きだから歌もいいかな。でも、どれもしっくりこなくて。毎日シュート1本止めるためだけに生きてきた時間が長すぎて、何もない自分を受け入れられないというか、なんのために生きているかわからなくなって、一時期はストレスで耳が聞こえなくなってしまいました。
そんな時、ふと、引退するに当たって2つのテーマを用意していたことを思い出しました。自分を育ててくれた、地元に恩返しをしたい。サッカーに恩返しがしたい。それが何に繋がるかわかりませんでしたが、その時の心境を恩師に話したら、市の職員になることを勧められました。初めは、公務員なんて性に合わないと思いましたが、その思い込みを外して考えてみると、すべて合ってくるんですよね。二度目の採用試験でなんとか市の職員になることができました。
——今後、小野寺さん個人として何をしていきたいですか。
(小野寺)まずは、クラブ経営に対してアドバイスができるように、マネージメントの勉強を進めていきたいです。グラウンドでは、GKコーチとしてできるところまでやりたいと思っています。伸び代のある選手の指導にあたり、今、面白さを実感しているところです。自分の持っているものを伝える、伝わることに喜びを感じています。なるべく現場からも離れずに、仕事は仕事としてやりながら大和シルフィードの発展、そして、市民のみなさんの健康のために尽くしていきたいと思います。そして、私と同じように、セカンドキャリアに迷う子たちに、きちんと良い道が備わるように、身をもってアドバイスしてあげたいと強く思います。
——本日はお忙しい中ありがとうございました。
©大和シルフィード
小野寺志保(おのでら しほ)
1973年11月18日生まれ
出身地:神奈川県
現役時代のポジション:GK
所属:大和シルフィードGKコーチ
経歴:読売SC女子・ベレーザ(1989〜1991年)→読売JSC女子・ベレーザ(1992〜1993年)→読売西友ベレーザ(1994〜1997年)→読売ベレーザ(1998年)→NTVベレーザ(1999年)→日テレ・ベレーザ(2000〜2008年)
日本代表:23試合出場(1995〜2004年)
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今回のインタビュアー勝村大輔氏のサイトでインタビュー後記を掲載しております。
勝村氏と小野寺さんは同級生だったこともあり、取材後記ではいつも以上に踏み込んだ内容がご紹介されておりますので、ご一読の価値あります!