ミスター・トリニータ、政治の世界にキックオフ!大分愛に満ちた高松大樹さんの選択

ミスターと呼ばれる人がいます。その分野で秀いでる活躍をして、所属先やその周囲から広く愛されて、長年頑張った人がそう呼ばれます。昨年末、大分の地でユニフォームを脱いだ、プロサッカー選手もその一人です。
大分トリニータ一筋で屋台骨を背負った元日本代表FWの高松大樹さん。引退後は長年応援してくれた地元の為に働く決意を固められました。
ミスター・トリニータは、新たな世界へキックオフを開始しました。


by 大分トリニータ

実はサンフレッチェ広島の特別指定選手だった

高松大樹さんは、昨年まで大分トリニータに所属したFW。頻繁な移籍が一般化しているプロサッカーの世界で、高校卒業後に入団したクラブに所属し続けて引退された事は、実力が必要な事は勿論の事、クラブへの愛情がなければ成り立たない事です。ミスターと呼ばれる要件を満たしています。
1981年に山口県宇部市に生れた高松さんは、多々良学園高校(現:高川学園高校)在学中から頭角を現し、地元から最も近いJリーグクラブであるサンフレッチェ広島の特別指定選手に選ばれます。
ところが、高校卒業後の進路は広島ではなく九州の大分を選択します。2000年に高校を卒業すると、高松さんは当時J2だった大分トリニータに入団します。ここから17年間に亘る大分トリニータ人生が始まったのです。


by 2002world.com

J2発足2年目が大分トリニータ入団の年

高松さんが入団した当時の大分トリニータはJ2。J2は1999年にJリーグの二部化によって発足したばかりの下部リーグでした。
1999年まではJFLに所属していた大分トリニータは、1999年のJ2発足からリーグメンバーとなります。高松選手が入団した当時はJ2が発足した翌年で、合計10クラブがJ1昇格に向かって凌ぎを削っていました。
初年度は主としてサテライトで出場しますが、2年目にはサテライトの監督だった小林信二監督(現清水エスパルス監督)がトップチームの監督に就任すると、高松さんを積極的に出場させる様になります。
そして入団3年目にはレギュラーの座を射止めて、しかもチームはJ2で優勝を果たし、晴れてJ1に昇格することができたのです。高松選手はその原動力になりました。
正に大分トリニータの躍進の中心にいたのです。


by サッカー速報

今は無き国立競技場で初のタイトルを獲得

2003年に大分トリニータが悲願のJ1に昇格した年から、高松さんはレギュラーに定着します。
漸く掴み取ったJ1の座でしたが、大分トリニータの力量はJ1上位に定着するレベルではなく、得点を期待された高松さんも二桁得点を上げる事ができずにもがいていました。
2006年に自身初となる二桁得点12点を上げますが、2008年には怪我の影響から出場機会が激減して、プロ初の得点ゼロというシーズンを経験することになりました。
Jリーグでの個人的な成績だけを見るとふがいない結果となりましたが、この年のナビスコカップでは破竹の勢いで勝ち続け、何とチームは優勝を成し遂げます。勿論大分トリニータにとって初のJリーグタイトル獲得であり、九州のクラブが国内の三大タイトルを獲得したのも初めという、記録的な優勝を成し遂げたのです。
そして清水エスパルスとの国立競技場での決勝戦で、豪快なヘディングで先制点を決め、大会MVPに選ばれたのが高松さんでした。
2005年シーズン途中から指揮を執ったシャムスカ監督は、着任年の終盤戦8試合で6勝1敗1分けの勝ち点19という驚異的な戦績を残してシャムスカ・マジックと呼ばれましたが、2008年ナビスコ・カップのタイトルはその集大成と言える出来事でした。


by スポーツナビ

天国から地獄の展開

2008年ナビスコ・カップに優勝した大分トリニータは、Jリーグ4位というクラブ史上最高成績でシーズンを終えます。九州の小クラブの躍進に多くのサッカーファンから驚きの眼差しが集まり、2009年のシーズンが期待されていました。
しかし、前年Jリーグで最高成績を残したチームは、急転直下不調に陥ってしまいました。様々なネガティブ要因が重なり、14連敗というJリーグの負の記録を打ち立ててしまい、シーズン前半戦を1勝1分15敗で終え、シャムスカ監督は解任されてしまいました。
結局7年間死守して来たJ1の座を明け渡し、8年振りになるJ2への降格が決定してしまいました。カテゴリーの降格だけで事態は収まりませんでした。
シーズン終了後に、クラブに多額の負債があることが社長から選手に告げられたのです。DFの森重真人選手(現:FC東京)、FWの金崎夢生選手(現:鹿島アントラーズ)、GKの西川周作選手(現:浦和レッズ)ら有力選手の移籍が次々と発表されました。
「僕は出て行くつもりはありませんでしたね。やっぱりJ2に落としてしまったという責任を感じていましたから。若い選手は先のことを考えれば、出て行ったほうがよかったかもしれませんけど、僕はそういう立場ではなかったですから」
高松さんはこう述懐されている通り、大分トリニータに残留して、地元ファンの為、自らの為、大分トリニータの昇格を目指して、大分の地で頑張る決心をしたのです。
クラブの事情もあって2011年には一年間だけFC東京に期限付き移籍する事を余儀なくされますが、翌年には直ぐ様大分トリニータに復帰を果たします。
このころ高松さんは、正に天国と地獄を経験したのでした。


by JとFの歩き方

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大分愛に目覚めたA代表選手

クラブ以外でも国際試合で活躍をしました。2004年アテネオリンピック代表として、本大会3試合全てに出場し、アンドレア・ピルロ(現:ニューヨーク・シティFC)らを擁したイタリア戦でゴールを決めています。チームは1勝2敗で残念ながら予選突破は叶いませんでした。
2006年にはA代表に召集されて、AFCアジアカップ2007最終予選のサウジアラビア戦で国際Aマッチ初出場を果たしました。この頃から、大分トリニータ・サポーターからは、ミスター・トリニータと呼ばれ始めます。
ちょうどその頃には、浦和レッズから移籍オファーがあったそうで、同年代の選手も多く所属するビッグクラブへの移籍に心が動いた事もあった様です。しかし、結局は大分トリニータ残留を決めているのです。
「やっぱり、大分だからですかね。あのときは署名活動もあって、みんなに残ってくれと言われたんです。こんなに僕のことを思ってくれる人がいるんだから、出ていくことなんてできないでしょ。」
こう述懐されている高松さんの大分愛は、このころ既にしっかり芽生えていました。その事が、大分トリニータ一筋でプロ生活を全うした最も大きな要因でしょうし、後述する引退後の選択に繋がったとみて良いと思うのです。


by JFA

二つの夢を叶えたJリーガー人生

2016年11月12日大分銀行ドーム。大分トリニータのホームで、2016年J3シーズンのホーム最終戦が行われた日です。この時点で大分トリニータはJ3首位。最終節を次週に残しているので、J2復帰は確定してませんでした。
この日のゲームが大分トリニータのホームで高松さんが出場する最後のゲームとなりました。高松選手はこのY.S.C.C.横浜戦に84分から途中出場。そして、ホームでの最後のゲームとなった事から、ゲーム後に高松さんの引退セレモニーが行われました。
平均入場者数7771人の大分銀行ドームにこの日集まった観客数は1万1065人。高松さんは、短いメッセージながら、大分のサポーターに向かって、心のこもった最後の挨拶をされました。
最も気持ちのこもった一節がこちらです。「自分の夢が二つ叶いました。トリニータで優勝できたこと、トリニータで引退できたことです。」
唯一の優勝経験はカップ戦でしたが、プロとして入団したクラブで頑張り続けて、そのクラブで引退するという例は、多くのJリーガーの中でも極めて少ない事だと言えます。
ビッグクラブからのオファーを断り、経営破たんを経験した地方の小クラブに17年間一筋(1年間のレンタルを含む)に所属して闘い続けた高松さんのプロ人生は、見事だったと言えます。
華々しい戦績や記録のある選手ではありませんでしたが、プロになったそのクラブに一途の愛を捧げた、男らしいプロサッカー選手でした。


by Legends Stadium

キックオフした第二の人生は政治への道

引退された高松さんが選んだ第二の人生は、政治の道でした。
「私のすばらしい経験は、地域の方々の支えなしには不可能でした。その感謝を考えた時に、地域への恩返しで大分市議会議員になることを自ら決意しました。」とオフィシャル・ブログで述べられています。
大分を愛してしまった高松さんは、大分の地で政治家として地域のお役に立とうと、出馬を決意されたのです。
高松さんが決意された様に、Jリーガーが政治の世界に転身された例は、多いとは言えませんが、今までにもあります。
さいたま市議会議員、埼玉県議会議員だった元浦和レッズの田口禎則さん、元アルビレックス新潟で現新潟市議会議員の梅山 修さん、参議院議員だった元愛媛FCの友近 聡朗さん、現さいたま市議会議員で元浦和レッズ(元日本代表GK)の都築龍太さんなどがおられます。
大分市議会議員選挙は2017年2月19日です。高松さんが当選しているかどうか、筆者が執筆している時点では想像だにできません。ご健闘をお祈り致します。


by デン速

「本音を言えば、J1にまで上げてから引退したかった。」と語る高松さん。しかし多くのサッカーファンは、高松さんが貫いたクラブ愛、大分愛に理解を示している筈です。
ミスター・トリニータがキックオフした第二の人生が順風満帆な船出になる事を、筆者も願っております。

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