更なる晴天の霹靂
高校生でJリーグデビューを果たした事も晴天の霹靂でしたが、更なる晴天の霹靂が起こります。
それは1998年Jりーグ第二節の京都パープルサンガ戦が終わった夜の事だったそうです。自宅に清水エスパルスの強化部長から連絡があり日本代表に選出されたと告げられたのです。
Jリーグデビューしてまだ二戦。しかも二戦とも途中交代しているので、フル出場したこともない高校三年生が、突如日本代表に呼ばれてしまったのです。ご本人はA代表ではなくU世代代表だと思っていた様ですが、それも頷けます。
当時の代表監督は岡田武史監督。前年のアジア最終予選で、前任の加茂周監督が更迭された後に代表監督に昇格し、ジョホールバルの奇跡を経て、初めて日本代表がワールドカップに出場を果たした時の監督でした。
つまりワールドカップフランス大会目前の段階での日本代表初召集だったのです。舞台はFIFAワールドカップ共同開催記念試合として設定された韓国戦。アウェイのソウルで、1998年4月1日の事でした。市川選手は日本代表初選出で、しかもいきなりスタメンで起用されたのです。
市川選手以外は当時の代表常連選手ばかりのそうそうたるメンバー。清水エスパルスのトップチームでJリーグデビューしているとはいえ、所属は清水エスパルスユースでしたので、スタメンの所属チームとしては、清水エスパルスユースと紹介されました。
初代表で初スタメンのゲームでしたが、市川選手は経験の無さをものともせず、しかも完全アウェイのソウルで、ユース所属選手とは思えない、果敢なプレイを見せてくれました。
Jリーグにデビューしたのが1998年3月21日。それから2週間も経っていない4月1日に、日本代表のスタメンとして韓国戦にフル出場を果たしたのです。結果は1対2で敗れますが、市川選手にとっては忘れられないA代表デビューになった筈です。
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2002年ワールドカップメンバーに
日本代表に選出されるという大チャンスを物にした市川選手でしたが、残念ながらその年のワールドカップフランス大会には選出されませんでした。
しかしチームへの帯同が許されて、ベンチからワールドカップを体感する機会を得た事で、2002年ワールドカップへのモチベーションに繋がったそうです。
高校生として大抜擢で代表入りしたものの、その後オーバートレーニング症候群になるなどの不運が重なります。
フィリップ・トルシエ監督になった4年間は代表に選出されなくなってしまいますが、フランス大会帯同での経験が大きなモチベーションとなり、本大会直前に代表復帰し、日韓共同開催となった2002年のワールドカップに出場を果たします。
グループリーグのチュニジア戦での中田英寿選手のゴールに繋がったアシストは市川選手によるものでした。
清水を離れて
高校生Jリーガーとしてデビュー以来14年間、一貫して在籍して来た生れ故郷の清水エスパルスを2010年シーズン終了をもって退団します。
その後はヴァンフォーレ甲府、水戸ホーリーホック、藤枝MYFC、FC今治とクラブを転々として、今シーズンからはヴァンラーレ八戸というJFLのクラブに在籍しました。
高校生Jリーガーとしてデビューを果たし、日本代表最年少出場記録ホルダーの市川選手のサッカー人生は、八戸の地のJFLの一員として終える事になりました。
スピードに溢れ、果敢に右サイドを駆け上がり得点チャンスを作る一方、しぶとく相手の攻撃を守備する、右サイドバックとして活躍されました。
元日本代表選手で、J1から、J2、J3、JFL、四国リーグという日本サッカーの各リーグを経験された数少ない選手でした。
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丸20年間プロサッカー選手として現役を続行できる選手は多くはありません。
オーバートレーニング症候群を患った事もあったのですから、尚更20年間の現役選手生活を維持できたことは素晴らしい事だと思います。
市川選手、本当にお疲れ様でした!
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