J2でゴール量産中!清水エスパルス鄭大世選手のこれまでの歩み
現在J2リーグ得点ランキング(24試合出場17得点)で首位に立つ鄭大世選手は、11試合12ゴールと多くの得点を重ねています。所属クラブの清水エスパルスにとって、救世主的な存在として君臨しています。彼は北朝鮮代表を選びワールドカップに出場した際に、大粒の涙を流したことが印象的だと思われます。そんな熱いハートを持った鄭大世選手をフォーカスします。
人間ブルドーザーと称されたストライカー鄭大世
鄭大世選手は愛知朝鮮第二初級学校(日本の小学校に相当)4年生からサッカーキャリアを開始します。朝鮮大学校入学後、プロ入りを目指して東京都大学サッカーリーグで研鑽します。
川崎フロンターレの練習試合に参加した際に、強豪専修大学から5得点をマーク。この活躍がきっかけで、2006年に準外国籍選手枠(在日枠)を活用して同クラブに入団しました。
準外国籍選手枠(在日枠)
日本で出生し、日本の義務教育中であるか修了したか日本の高校・大学を卒業した者 – 1名まで登録可能
川崎では圧倒的なフィジカルを活かして、多くのゴールを量産しました。2007年のAFCチャンピオンズリーグでは、韓国の全南ドラゴンズに得点を決めて、チームのグループリーグ突破に貢献。この年に開催されたFC東京戦では自身初のハットトリックも達成しました。彼の豪快なプレースタイルは「人間ブルドーザー」と称され、川崎サポーターから愛されています。
北朝鮮代表では、悲願のワールドカップ出場へ
鄭大世選手は韓国籍を保有していますが、朝鮮学校の教育を受けていたため、北朝鮮代表でプレーすることを熱望していました。ですが、代表までの道のりは険しいものでした。
最初は韓国籍を放棄して、北朝鮮籍取得を試みました。しかし、韓国政府は北朝鮮を国家として承認していないため、この試みは失敗に終わります。その後、在日本朝鮮人蹴球協会のサポートを受けて、北朝鮮のパスポート取得に成功。これにより、FIFAから北朝鮮代表でプレーする権利を承認されました。
北朝鮮代表では2007年に3試合8得点と凄まじい活躍で、代表の定着に成功します。2008年の東アジアカップでは日本と韓国双方にゴールを決めて、両国との対戦結果を引き分けに持ち込みました。さらにワールドカップアジア最終予選で、強豪イランからゴールを奪います。
そして、念願の2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会に彼は出場しました。グループリーグ初戦のブラジル戦前に流れた国歌斉唱で、大世選手は大粒の涙を流しました。この姿は韓国でも話題となり、「人民のルーニー」と賞賛されました。
ドイツに挑戦!そして、韓国での戦いとは
2010年ワールドカップ後に、ドイツ2部のVfLボーフムと彼は契約しました。開幕戦では、1860ミュンヘン相手に2得点と傑出した働きを見せます。1部昇格は逃しますが、シーズン10得点の活躍でチームをもり立てました。
ボーフムで活躍した後、ドイツの古豪1.FCケルン(当時1部)へ移籍します。しかし、思ったような活躍はできず、チームは降格。チームが2部に落ちてからも出場機会は増えなかったため、出場機会を求めて新天地の韓国に渡ります。
2013年1月10日に、Kリーグの強豪である水原三星ブルーウィングスに入団します。初年度は23試合10ゴールの結果を残し、不安定なチーム状況の中で一人気を吐く活躍をしました。2014年には28試合7得点で、リーグ2位入りに尽力します。2015年はゴールが少なくなったもののポストプレーでチームに貢献、シーズン途中に清水エスパルスへ移籍しました。
J2では得点王争い。人民のルーニーは復活するか?
2015年7月8日、清水エスパルスにシーズン途中加入で鄭大世選手はJリーグ復帰を果たします。自身は13試合4ゴールを記録しますが、崩壊寸前のチーム状況だったこともあってクラブは降格してしまいます。
J2シーズン開幕後は第8節のカマタマーレ讃岐戦で初ゴールを決めます。その後はコンスタントに活躍していましたが、21節のファジアーノ岡山戦からゴールを量産体制に入ります。彼は24節の東京ヴェルディ1969戦ではゴールをあげませんでしたが、24節を除く21節から29節までゴールを決め続けました。特に25節ジェフユナイテッド市原・千葉戦からの働きは物凄く、5試合8得点で破竹の活躍を披露します。現在11試合12得点の働きで、彼はチーム昇格の原動力として君臨しています。
今後、鄭大世選手はどれだけ得点を伸ばすことができるでしょうか。清水エスパルスのJ1リーグ昇格には、彼の働きなしでは成し得ません。J2ゴールランキングから目が離せませんね。