クラブの哲学を子供たちに。チェルシーFCサッカースクール東京・中島彰宏さんインタビュー 後編

チェルシーFCサッカースクール東京・テクニカルディレクターの中島彰宏さんをゲストに迎えたインタビュー後編。
前編ではチェルシーFCサッカースクール東京について伺いましたが、後編では中島さんのサッカー人生に迫ります。

インタビュー前編

選手から指導者の道へ転身した中島さん。一体どういったサッカー人生を歩んできたのか?そして、今後の夢は?

自分が何か考えてそれを表現することが大事、それが1番楽しいこと

徐々に中島さん自身に踏み込みたいと思っているんですけど、そもそも中島さんとサッカーのこれまでの関係について、サッカーと出会った頃から教えて下さい。

サッカーボールを蹴ることは相当小さい頃から好きだったようです。そして、通っていた保育園に地元の少年チームの勧誘のチラシが配布され、それを親に見せて「サッカーをやりたい」と言い出したみたいです。たしか4歳の頃だったと思います。

え、4歳の時に入ったんですか?早いですね!

いわゆるお父さんコーチがいる中でやっていましたね。


サッカーは4歳からはじめ、地元の少年チームに入った

でも、試合とかあるんですよね、そういう少年サッカーチームでも。

試合はいっぱいありますね。僕、華奢な上に背がすごい小さかったんですね。中学入学時の身体測定で138cmしかないくらい。さらに、足も遅くて。身体能力の差で、試合の時に相手と接触するとすぐふっ飛ばされたり、前にポンってボールを出されて走られたら置いて行かれちゃってました。でも、ボールを蹴ったりドリブルは好きだったので、中盤でプレイしてたんですが、ボールがあるところには顔を出すようにしてて、ドリブルすれば1人2人抜いて潰されて倒れちゃうとか。そんな感じで、いつもお父さんコーチに怒られていました。ただ、3年生ぐらいに突然に何も言われなくなったんですね。

ほう、なんでですかね

僕も不思議で。よく覚えていたのがそのコーチは「言われるうちが花だよ」「注意されなくなったら終わりだと思え」って常に言っていた人だったので。で、当然僕も「あぁ、諦められたのかな」ってずっと思っていたんですよ。ただ大人になってからそのコーチから話を聞いたんですが、ある他のコーチに僕のことを「あの子は自分で考えてプレイ出来る子だから、自由にやらせた方がいい」と言われたみたいなんですよね。

へぇー、アドバイスされた訳ですね。

僕も後から聞いた話ですが。当時は「僕、終わったのかな」と少し思ったりもしていましたが、自分のやりたいことが出来るようにもなったので、ぶつかると倒されちゃうならば、ぶつからないようにドリブルをしたりボールを受けたり、ぶつからない内にパスを出したりすればいいじゃんって考えて。そういう感じでやっていたら、3年生ぐらいからチーム自体もその地域で優勝出来るようになって、僕自身もMVPとか、優秀選手に選ばれたりするようになって。


体が小さかったので、ぶつからないように工夫してプレーしていた

もしかしたら今僕が考えている、自分が何か考えてそれを表現することが大事なんだよ、それが1番楽しいことなんだよ、というサッカーのベースはこの頃に培われたのかもしれません。

なるほど。中島さんはサッカーが上手い奴だっていう認識がその地域ではあったわけですね。

ありがたいことに(笑)。で、中学の時ですが、僕の行く中学がサッカー部がなくて、地元に現在のFC東京(当時は、東京ガス)の下部組織のチームがあって、そのセレクションを受けた時に、背も身体能力も低かったので、「本当に大丈夫なのか?」という話なったみたいで落とされてしまって。じゃあ、どうしようかってなっていた時に、そんなに大きくない町のクラブのジュニアユースのチームが誘ってくれて、そこでサッカーを続けることになりました。

ただ、そこも専任の指導者はいたんですが、強豪でもなかったので結構自由にやらせてもらえました。もちろん采配は監督がするんですが、プレイや練習の内容は子供たちにも自由度を与えてくれていて、一応僕が2年生ぐらいから中心になってやらせてもらえました。

当然、勝ちたいので色々試行錯誤しながら、中学3年生まではそんな感じでやっていましたね。

戦績的にはどうだったんですか?

チームの戦績はよくなかったです。ただ、個人的には地域のベストイレブンに選んで頂いたり、選抜に入れさせてもらって色々遠征行ったりはしていました。

いざサッカー頑張るぞと思った矢先に…

Jリーグも出来て、サッカーやる子からすればプロ選手という夢を誰しも一度は見ると思うんですが、中島さんの中でもありましたか?

小学校の頃からプロになりたいと常に思っていました。Jリーグの下部組織のセレクションに中学の時に1回落ちていますが、それでも自分は同年代の選手たちに負けていないと思い込んでいました。

なるほど、で高校はどうされたんですか?

地元の公立高校にサッカーの指導に優れていると東京都ではちょっと有名な先生がいらっしゃって、その方に中学生の時に「うちの高校においでよ」と言って頂いたことがあって。これまで自分は専任の指導者のもとで学んだことがないというのもありましたし、Jリーグの下部組織でプレイしていたような人たちも、わざわざその先生の指導を受けるためにその高校に入学したりしていたので、じゃあ僕もそこに行こうと受験し入学出来ました。で、いざサッカー頑張るぞと思った矢先に、都立ということもあってその先生が転任されて・・・。

ひどい(笑)。誰か代わりの専任の先生が入って来たんですか?

来なかったです。で、その先生がいなくなったら、先輩たちがそこまでモチベーション高くやっていたわけでもなくて、チームが弱くなってしまいました。ただ高校1年の時にその地域の選抜高校とその地域のクラブチームの中で選抜チームを作って遠征に行くって話があって、僕もそのセレクションを受けて入ることが出来ました。

高校1年の時は先輩がいるからまだスタメンで出れるような感じではなかったんですか?

スタメンだったんですが、采配や練習のメニューとかは全部先輩主導でやっていましたね。

じゃあ、個人として、高校の部活とは関係なくそのセレクションを受けたら受かって。

はい、そこで専任の指導者のもと、遠征に行ったりする中で学ばせて頂いていました。とはいえ、高校に戻ったら監督もいないので、先輩を始めみんなモチベーションも低く、それに嫌気をさしてしまいました。高校2年生になる時に、当時サッカー雑誌の中にクラブチームのセレクション情報があって、それを見たら近くのクラブチームで全日本ユースに出場したクラブがセレクションをやるって書いてあったので、これは行くしかないと。で高校の顧問の先生にも「受かったら退部します」と伝えました。無事合格出来、練習もしていたんです。そんな中で、クラブチームの選手登録と高校の選手登録と2重登録は出来ない規定なんですが、両方とも登録した選手が試合に出てしまった。で、罰則としてそのチームは翌年のJFAの公式試合1年間登録出来なくなってしまったんです。


高校時代は不運が続いてしまった

どんだけ不幸なんですか(笑)。

ただ、僕はまだ入団手続きはしてなかったんですよ。そんな中で起きたことだったので、「えぇっ!」ってなって。試合はないけどチームにはちゃんとしたコーチはいて練習は出来る、高校に戻ったら指導者はいないけど試合には出られる。そこの天秤にかけた時に、先輩は引退して行くので、自分がもし中心で色々やれるんだったら、高校に戻ろうと考えました。

他のクラブのセレクションを受けようっていう選択はなかったんですか?

ありました、実際に受けて受かった所もあるんですけれども。八王子市がちょっと地理的にも恵まれているとはいえない場所だったので。で、また高校に戻りました。高校でも選抜チームと自分のチームと2つで活動していて、高校の方は指導者がいないので浅はかな知識で、練習にあまり真面目に出てこない人にも上手く伝える方法がないか、とかずっと考えながら。勝ちたいので、サッカーのビデオをいっぱい見たり、資料を読み込んだりしていました。ある時、東京都全体の高校サッカーの指導者を集めたリーダー講習会というのが開催されたんです。

高校生が行くような講習会だったんですか?

先生や監督向けなので、高校生が行くようなものではありませんでした。当時、名門帝京高校の監督だった小沼監督が講師で、うちの顧問にも申し込みの案内が来ていたんですが、自分は行くつもりはないと。じゃあ、「僕これ行っていいですか?」「いいけど、選手というか生徒いないよ」「それでも良いです」みたいなやり取りをしたのを覚えています。会場には選抜の監督なんかもいて、「なんでお前いるの?」「いや、うちの学校のサッカー部、先生いないので僕が勉強しに来ました」と。そこで学んだことをチームに持ち帰って伝えて、その時から伝える楽しさとか、サッカーを勉強する楽しさを味わったのかもしません。

本当に縁というものにびっくり

高校出たらJリーガーっていう子もいる中で中島さんはどう考えたんですか?

大学でサッカーをやれるような環境が少し整ったんですが、ちょうど高校3年の終わり位に腰椎分離症っていうけがをし、動けなくて起き上がることも出来なくなってしまいました。入学してからプレイ出来るかも分からなかったのでそれで入学するのはちょっとということで大学の入学も出来なかったんです。で、それから腰は直して、ボールをける環境が欲しかったというのもあり、母校の高校でコーチみたいなことやっていました。

ある時サッカー雑誌のセレクション情報の中に当時全日本でも優勝していたフットサルチームの情報があって、セレクションを受けに行ったんですが、フットサルシューズの存在とか知らず中学校の時の体育館履き持って行って、「それ何の靴なの?」「え、これ中学の体育館履きです」「お前、本気で言ってるのか?」みたいなやり取りはあったんですが、何とか入れさせてもらえて、フットサルの選手としてやっていました。


フットサル選手時代

なるほど。生活はバイトしてフットサル選手もやってみたいな感じだったんですか?

バイトや契約社員をやっていました。一緒にサッカーしていたみんなはプロのサッカー選手を諦めて、大学や違う道に進んでいたんですが、僕はまだプロサッカー選手になれるんじゃないかと根拠なく思っていて。もしなれなかったとしても、将来何かしらサッカーの仕事をしているだろうなっていうイメージはありました。そうやってずっと選手やりながら過ごしていたんですよね。そんな中、八王子市のサッカー協会がフットサルリーグのチームを八王子市で立ち上げるというプロジェクトがあって、チームを作るから、僕に選手兼監督をやってくれないかという依頼があり応じることになりました。

なんで中島さんだったんでしょう?

僕は八王子出身で元々八王子サッカー協会の会長さんにもお世話になっていました。中島だったら、例えばサポートしたお金を持ち逃げするとか変なことはないだろう、サッカーの知識もあるし、一生懸命やっているのも知っているから。そして、八王子市出身の選手が八王子市のチームでFリーグになるというコンセプトで打ち出していきたいから、引き受けてくれないかということでした。もちろん、プロではないので、僕も契約社員を続けながらそのチームで活動していました。

すると、協会の会長さんから「今どうやって飯を食っているんだ?」と言われまして。「普段は契約社員で普通に働き、夕方に終わって八王子に戻って夜練習をやっています」とお話したところ、「Jリーグのチームのサッカースクールで働くのは興味ないのか?」って言われて。「あります、ただツテもないので・・・」と言ったら、すぐその会長さんがそのJリーグのチームのサッカースクールの方にこういう奴居るから入れてやってくれないかみたいな電話をして、で10分ぐらいして戻ってきて「話し付けたから、あとは自分で連絡しろ」って。僕は指導者としてお金をもらったことはないですし、子供相手に指導した経験もなかったんですが、ヴェルディのサッカースクールで働くことになりました。

小学生を対象にということですか?

幼稚園から小学生ですね。僕からその会長さんに「サッカーの仕事をしたい、コーチの仕事をしたいから紹介して下さい」って話なんて1回もしたことなかったんです。あくまでプレイヤーだったので。もちろんサッカーに関わる仕事が出来ればという気持ちはあったんですが、いきなりその話をされたので。本当に縁というものにびっくりしました。

自分の中で指導者としてのウェイトが高まってきて

その後、フットサルのプレイヤーとしては、どういう状況だったのでしょうか?

選手兼監督となると、なかなか自分がプレイヤーで100%出来ない。指導や采配も楽しかったんですが、まだプレイヤーとしてやりたいという気持ちが第一にあったので、もどかしさがありました。2年間八王子市のチームに携わった後に、ひとつ上のリーグの関東リーグのチームに入るチャンスがあって、「本当に申し訳ないが、プレイヤーとしてまだトライしたい」とお話をして、移籍をすることにしました。

ヴェルディのサッカースクールで仕事をしながら、そのチームで2シーズンプレイをしました。ちょうどその頃、ヴェルディからJ2の横浜FCのサッカースクールに仕事も変わり、今度は横浜FCで生計を立てながら神奈川のチームでプレイをしていました。で、今度は所属していた神奈川のチームが関東リーグから降格する事態になって、関東リーグの山梨のチームから声がかかって、そちらに移籍することになりました。

横浜FCでも働いていたんですよね?八王子−横浜−甲府って、移動相当厳しくないですか?

はい、おっしゃるとおりで(笑)。八王子から甲府まで夕方高速を飛ばして練習に行って、また真夜中の2時ぐらいに帰ってくるみたいな生活をしていて。横浜FCでもサッカースクールをやっていて、少しずつ色んなことを任せて頂けるようになったりとか。今まで選手第一だったのが、自分の中で指導者としてのウェイトが高まってきて。同時にプレイヤーとしても27、8歳だったんですが、自分が思い描くプレイが徐々に体現出来なくなってきて。メンタル的にそのギャップがかなりストレスに感じ、それがもしかしたら技術不足なのか周りがハイレベルになってきたのかは不明なんですが。

指導者として、一歩離れた第三者目線から子供たちに「こうやったらもっと良くなるかもよ」と伝えて、実際に子供たちがそのアドバイス通りにして上手くいって笑顔を見られたり、こういうことがすごい楽しくなって。ならば、もう選手を引退して指導者の道で行こうと28歳の時に決断しました。

で、そこからは横浜FCでのスクール活動1本になっている中で、チェルシーに移った理由は何だったんでしょうか?

横浜FCでコーチとして活動している中で、やっぱり最初にも言った通り自分で何かを考えて表現する、仲間と一緒に楽しむ、これを伝えていきたいと考えるようになりました。横浜FCはもちろん、すごい良いスクールなんですが、日本のスクール環境だとまだなかなかそういう文化がない。でも、自分はこのことを濃く発信したいとなった時に偶然チェルシーの話が来て、考えに共感する部分も多かったんです。

ノンキャリアのプレイヤーだった僕がどこまで行けるか

今は小学生とか小学生より下の子供たちに対して指導をしている状況ですが、これからのチェルシーFCサッカースクールの構想や目指されている姿、あとは中島さん個人としての今後のビジョンを教えて下さい。

まず個人的なビジョンですが、僕は選手として大成していませんが、そういった人間でも指導者として表舞台、トップレベルのカテゴリの舞台に立てるよう挑戦していきたいと考えています。日本人だとノンキャリアのプレイヤーだった指導者が、例えばJリーグの監督になる例がほとんどありません。

海外だとちょくちょく耳にしますよね。

例えば、アントラーズにいたオリベーラもプロ選手ではなく、有名どころだとモウリーニョもそうだと思います。日本ではまだそういう文化がない。でも、僕の周りでも良い指導者がいっぱいいて、ノンキャリアのプレイヤーだった僕がどこまで行けるか、それはビジョンの1個として持っています。もしトップカテゴリの監督になったとしても、選手の心を掴んでまとめたい。技術はプロなのでハイレベルな水準にあるはずなので、心の掴み方という技術をあげるために今サッカースクールで子供たちへの伝え方を通じて勉強している最中です。


選手としてのノンキャリアだった自分が指導者としてどこまでいけるか

スクールを運営していても、多くの子供たち、保護者の方々は技術的に上手くなる、将来サッカー選手になるためにはどうしたらよいかということを求めています。もちろん、求められていることにも対応していくんですが、ただもっと大事なことがありますよと。で、それが何かと言うと、1年で新しいJリーガーが何人誕生するか知っていますか?数十人という世界です。一方、日本で最高峰と言われる東京大学に1年で入学する人が何人か知っていますか?

3,000人とかいますよね

東京大学に入学するよりもJリーガーになるという方がはるかに難しい。もちろん、トライをすることは良いと思いますし、僕たちもそれに対して技術的にも伝えることはしたい。ただ、もしサッカー選手になれなかったら、学校の先生でも弁護士でも何でも良いんですが、他の道に行く訳ですよね。その時に、サッカー選手諦めて弁護士になろうという時に弁護士になるためにはまた司法試験受けなければいけなかったり、勉強する努力というのは必ず必要になってきます。努力をすれば、何か一生懸命にやれば、自分が思い描いたことを行動に起こせば、何かが生まれるかもしれないという基本はチェルシーサッカースクールで培われたなという風に思ってくれたら、僕たちは1つの成功の形だと思っています。

サッカースクールでサッカーを伝える立場なんですけど、一生懸命努力する、自己表現をする、みんなで共有して楽しむ、これらのことをサッカーを通じて伝えてるだけです。生きていく上で、人間として成長していく上で、本当に大事なことだと思っているので、今後もチェルシーサッカースクールとして、東京のテクニカルディレクターとして伝えていきたいです。

僕がサッカーが好きで、ずっと自分なりに行動して、そうしたら周りの方々が縁を繋いでくれてサッカーに関わる仕事が出来るようになり、今こういうヨーロッパのクラブで仕事させて頂いていて、それも恐らく僕がそこそこ信用に値する人間だと思ってもらえたからなんだと思います。


一生懸命努力・自己表現をしているうちにいろんな縁ができて、何かが生まれる

子供たちにも頑張って、自分なりに行動すれば、何かが生まれるかもしれない。もちろん厳しい世界ですし、一生懸命頑張っていても誰も見てくれない時もあると思います。でも一生懸命やっていれば振り返った時に「俺、一生懸命やったな」って自分で自分を認めてあげられる。後悔なく、自信を持ってその後も歩んでいけるはずです。

自分で自分をちゃんと認めてあげられること、これが大事ですよね。

心技体じゃないですけど、順番通りに大事なのかなと個人的に思っていて。心、メンタルの部分がまず1番ベースにあり、サッカーの技術があって、最後にフィジカルが備わる。多分それがないために、サッカーを辞めていってしまう子供が日本は大勢いいます。それこそ高校サッカー終わって辞めちゃうとか、あんな辛いサッカーもうやりたくないと言う子がいっぱいいるという話を僕もよく聞くのですが、僕としては考えられません。その年代のトップカテゴリーまでいった選手が高校終わってサッカーを辞めるっていうのは考えられない。理由を聞くと、サッカーが楽しくない、きついって口を揃えて言うんですよ。

だから僕はスクールで技術もそうですけど、まずサッカーって楽しいんだよって、ボール蹴ること、みんなと一緒に頑張ることがこれだけ楽しいんだよというのをどれだけしっかり伝えるか。サッカーが上手い子もそうでない子も同じように、サッカーが楽しいという土台が大きければ大きいほど、さっきの心技体じゃないですけど、その上にプロになるんだったら厳しい技術練習や体力的な練習が必要になってくるので。技術の習得や体力向上のトレーニングが厳しいものであったとしても、サッカーが楽しいという土台がでかければでかいほど崩れにくいと思うんですよね。建築じゃないですけど。逆に、土台が小さいとハードなトレーニングが乗ると崩れてしまって、辞めちゃうってことになるのかなと。なので、サッカ―の楽しさを伝えられるようになりたい。

心の育成ですね。最後に中島さんにとってサッカーはどういう存在ですか?

サッカーは人と人とのつながりでしょうか。僕自身、これまで人生はサッカーがいつも中心にありました。その時々で、プレイヤーやコーチ、監督の役回りを求められ、それぞれの役回りの中で人生における様々な学びを得てきました。これからもサッカーを中心に人生が回っていくことだけは間違いなさそうです。

チェルシーFCサッカースクール東京公式サイト

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