天皇杯で好調!浦和レッズの李忠成選手とはどんな人?

今年の天皇杯サッカーで3試合連続ゴール中の李忠成選手。華々しい成果を出せなかった今期のJリーグの挽回を期すべく、天皇杯ではヒーローになると公言して実際に成果を出しました。
元旦の決勝に向けて闘志を燃やす李忠成選手とはどんな人でしょうか。


by SOCCER KING

幼少期からサッカー選手として注目を浴びる

李忠成選手は在日韓国人四世。東京都田無市(現西東京市)に生まれる。焼肉店を経営していた父親の李鉄泰さんも横浜フリューゲルスの前身であった横浜トライスターSCの選手をされていて、叔従父の金鍾成も元サッカー北朝鮮代表だったので、サッカーに縁の深い家庭環境にあったようです。

4歳からサッカーを始め、小学生の時に横河電機ジュニアユースチームに参加します。FC東京U-15との試合で注目を浴び加入要請を受けるも、練習場が遠かったという理由で横河電機ジュニアユースに留まります。

都立田無高校に入学すると同時にFC東京U-18に加入し、三年連続で国体東京都選抜に選出されます。2001年にはクラブユース選手権優勝、ジュニアユースカップに準優勝します。2002年に関東サッカーリーグ得点王になり、2003年にはプリンスリーグの優秀選手に選出されます。幼い頃からサッカーの頭角を現していました。

そして2004年にFC東京のトップチームに昇格し晴れてJリーガーになります。そして同年U-19韓国代表候補に選ばれた事で人生で大きな転機が訪れます。練習で参加した韓国で在日韓国人に対する差別的な仕打ちを受け、日本に在住する韓国人として祖国という事に関して揺れ動くようになります。

FC東京では成果を出せずに2005年に柏レイソルに完全移籍。柏レイソルはこの年にJ2に降格するが、主力選手が退団したせいで李忠成選手にはレギュラーに定着するというチャンスに変わります。元韓国代表の洪明甫選手がつけていた背番号20を受け継ぐことになります。


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日本国籍に帰化

2006年「大舞台で得点し、世界に在日韓国人の可能性をアピールしたい」と言う想いで韓国籍から日本国籍への帰化を希望し、2007年に日本国籍に帰化します。
そしてU-22日本代表に選ばれて2008年北京オリンピックに出場を果たします。その後怪我の影響があって柏レイソルでの出場機会が減り、2009年途中からサンフィレッチェ広島に移籍します。
サンフィレッチェ広島では背番号20番は既に他の選手の番号になっていた為、9番が与えられる。この背番号は李忠成選手が幼い日の憧れの選手であった元韓国代表選手だった盧延潤がつけていた番号でした。

移籍したシーズンから翌2010年9月までは出場機会に恵まれなかったが、それ以降はは5試合連続得点など出場12試合で11得点というストライカーの力を発揮するのでした。
その後AFCアジアカップ日本代表に初選出され、オーストラリアとの決勝戦で延長前半に途中出場し、多くの人の記憶に残る超美技のボレーシュートで日本を優勝に導きました。これが代表初ゴールという快挙でした。

この勢いのまま2011年シーズンでも活躍し、リーグ三位の15得点を挙げて優秀選手賞を受賞します。


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晴れてイングランド・プレミアリーグへ

2012年当時イングランド二部のサザンプトンにFCに完全移籍します。2012年シーズンにはチームがプレミアリーグに昇格しましたが、李忠成選手を買っていた監督が交代になった影響を受けてリーグ戦に出場を果たせず、カップ戦のみの出場に留まりました。

2013年シーズンは、サザンプトンに籍を置きながらJリーグのFC東京に期限付き移籍。さしたる活躍ができず期限は満了し、9月にはサザンプトンに戻るも2014年1月に契約が解除されてしまいます。
そして2014年シーズンからはJリーグの浦和レッズに完全移籍して現在に至ります。


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サッカーのセンスと想いが強く、レギュラークラスではあるものの、好選手の多い浦和レッズではレギュラーを獲得できているには至らず、時にはレギュラー時にはサブという位置づけが続いています。
2015年も同様のシーズンで終了した為、勝ち残った天皇杯では期する所があったのでしょう。「ヒーローになる!」と公言していました。決勝に至る3試合全てで得点し、準決勝では2011年のアジアカップを彷彿とさせる延長戦での決勝点を決めました。

残るは元旦の決勝戦。紆余曲折があったサッカー人生の全てを賭けて、天皇杯決勝でもゴールを決めて、公言した通りにヒーローになってくれるかどうか、李忠成選手のプレイに注目です!


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