《リオ五輪》ダジャレも一緒に…手倉森誠監督がリオから東北へ届けたい勇気
by SOCCER KING
2016年8月16日から開幕するリオデジャネイロオリンピック。出場を目指すアンダー世代代表の指揮を執る手倉森誠監督についてご紹介します。
手倉森誠監督〜プロフィール
by 日本経済新聞
手倉森誠(てぐらもり まこと)監督
1967年11月14日生まれ
青森県出身
現役時代のポジション:MF
歴代所属チーム:五戸高等学校→住友金属(現・鹿島アントラーズ)→NEC山形(現・モンテディオ山形) (1995年選手引退)
監督歴→ベガルタ仙台→U-21日本代表→U-22日本代表
サッカーの町で過ごした、双子のサッカー少年
写真左・手倉森誠氏 写真右・手倉森浩氏by Vegalta Sendai
現在、リオ五輪出場を目指すアンダー世代日本代表の指揮を執る手倉森監督は青森県五戸町の出身です。サッカー指導者である手倉森浩氏は、双子の弟にあたります。
手倉森監督が弟の浩氏と共に育った五戸町は、八戸市と隣接する馬肉やりんごが名産の町。人口は約1万8千人と小さな町ですが、実は古からサッカー文化の根付く、‘サッカーの町’という顔を持っています。
五戸中学に描かれるサッカーの壁画by nikkansports.com
五戸町のサッカーの歴史は戦後間もなくから始まります。1946年、五戸町にサッカークラブ「五戸蹴球クラブ」が誕生。
このクラブを設立した同町出身の江渡達男氏は、当時まだ県内に4校しかなかったサッカー部を1956年に五戸中学校、翌1957年に五戸高校につくりました。
五戸中学校は、サッカー部の創部2年目で県大会を3年連続制覇。この時に活躍した生徒が五戸高校に進学すると、県大会4連覇を遂げ、‘五戸町=サッカーの町’として人々にサッカーが浸透することになったようです。
‘サッカーの町’で少年時代を過ごした手倉森監督。弟の浩氏と共に、プロサッカー選手の道へと進みます。
仙台を飛躍させた名将の素顔は、ダジャレが大好き!?
by B-Plus
2008年、当時はJ2に所属をしていたベガルタ仙台の監督に就任。翌年には、J2ながらも天皇杯でベスト4に入る成績を収めます。
そして、2010年よりJ1昇格。しかし、ホーム開幕戦を翌日に控えた2011年3月11日、東日本大震災が発生。被災地となった仙台市を拠点とするチームは、約1か月半にわたりリーグを中断することに…。
震災後、初の試合となった川崎フロンターレ戦で劇的な逆転勝利を収めた際には、手倉森監督は試合後のインタビューで涙を見せる場面もありました。
同年、チームはリーグ戦を4位で終えると、翌2012年は昨年を上回る2位でリーグ戦を終えてACL出場権も獲得。チームを飛躍させた名称は、仙台にサッカーで明るいニュースを届けました。
‘シーン’となることも…手倉森監督のダジェレ集!
by ドメサカブログ
手倉森監督のダジャレその①:「俺はポジテグ!(ポジティブ?)」 手倉森監督の愛称が「テグ」であることから?…
手倉森監督のダジェレその②:「明日は葛飾北斎!(勝しかない?)」
手倉森監督のダジャレその③:「俺、手ぶら森!(手倉森?)」
手倉森監督のダジャレその④:「中東(中途?)半端な戦いはできない!」 2014年のU-22アジア選手権で、開催地のオマーンに到着した際に…
手倉森監督のダジェレその⑤:「敵を食え—と(クウェート)言いました!」 2014年のアジア大会クウェート戦を前に…
このようなダジェレは、まだまだ他にもあるようですが… 目的は、監督として人前に立つことが多いため、硬さをなくしたいとのこと。手倉森監督の気さくな人柄が伺えます。
そして、時には場をシーンさせることもある手倉森監督のダジャレ。しかし、「ウケてもウケなくても笑わせたいんだ」として、手倉森監督のダジャレはリオの地でも炸裂させてほしいですね!
東北人代表として、サッカーで勇気を!
by SOCCER KING
自身も東北・青森県出身、東日本大震災が発生した当時は、東北・仙台市を拠点とするベガルタ仙台の指揮を執っていた手倉森監督。震災に直面して、地域の人々の支えでプロでいられることに、改めて気付かされたと語ります。
「東北人代表として、戦っている姿で勇気を届けたい」… 日本代表であり、東北人代表でもある手倉森監督の想いを‘リオから東北へ’届けるために、今こそ、名将と言われる手腕が試される時です。
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