海外プロリーグへ挑戦し続ける男・菊池康平さんインタビュー 後編

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15カ国もの海外プロリーグへ挑戦し続けている菊池康平さんのインタビュー後編。
前編では菊池さんとサッカーとの出会いから主に大学生時代までのサッカーとの関わり、そして海外リーグへのアプローチの仕方などをお聞きしました。
後編では海外挑戦中のトラブルや現在のお仕事、そして将来の活動についてのお考えなど、様々なことをお聞きしました。

インタビュー前編

– これまで治安面などでこんな危険な目に合ったというトラブル経験はありますか?

オーストラリアでホームシックになって、夜公衆電話から電話して帰っていたら、後ろから車がずーっと追いかけてきて走って逃げたことや、マレーシアで夜屋台でご飯を食べ終わって帰っているときに、明らかに何か危なそうなものを持っている人に追いかけられたことはありますね。

あとは、ボリビアで夜のどが渇いたんですがそのとき現金を持っていなかったので、ATMで現金を下ろしてコーラを買って帰ろうとしたら、男2人に囲まれちゃって。スペイン語で色々言ってきたんですが、当時スペイン語がほとんど分からなくて、とりあえず握手をしてみました笑。それでも、向こうが「ディネロ、ディネロ!」と言っていて、ディネロがお金だということはかろうじて分かったんですが、英語で「スペイン語が分からないから英語で言ってくれ」と言ったら、向こうも痺れを切らして胸元から拳銃らしきものを出そうとしたので、「これはやばい!」と思って、思いっきり走って逃げました。そしたら、大通りに出て、車にひかれそうになってこっちのが危なかった、というオチつきの出来事がありました。

家に帰って、強盗の変な奴と握手しちゃったということで先ずは手を洗いました笑。このことを面白おかしくブログにアップしたら、それまで電話がなかったのに「何やってんだ!」と日本の親から心配されて電話がかかってきた笑。これが最大のピンチでしたね。

– 病気系のトラブルはいかがですか?

ボリビアの前にパラグアイにいたんですが、その練習参加していた地域が田舎すぎたこともあってあまり食事ができなくて、ボリビアに来て嬉しくて、たくさん食べたら、翌日激しい食中毒でお腹壊して、一日入院しました。あとは、昨年ラオスで犬に襲われたりとか、インドで原因不明の熱を出して入院したりとかは最近の話ですね。それまで病気は全然ありませんでした。


ボリビアの病院で治療を受ける

– 菊池さんが海外チャレンジするうえで必ず持っていくものはなんでしょうか?

電子辞書、地球の歩き方、それと最近は100円ショップで日本的なもの、例えば凧とか絵葉書とか扇子とか折り紙とか、こういうものをあげるとすごい喜ばれるので、いざというときに仲良くなるためのお土産として買うようにしています。

常備薬はあまり持っていきませんが、大きいバンドエイドとか足首が悪いので必ずテーピングは持っていくようにしています。テーピングは海外では意外と売ってなく、ボリビアにいるときは日本から送ってもらったこともありました。

– 言葉が障害になることはあったと思うんですが、差別とかはありましたか?

シンガポール、タイ、香港などの日本の情報が入りやすいアジアエリアではリスペクトがあって、嫌な思いをしたことはありません。オーストラリアでは、人自体は物凄い良かったんですが、サッカーとなるとみんな体が大きくて強かったので、はじめちょっと馬鹿にされたような雰囲気はありました。ただ、ある程度「こいつ戦えるな」と思われるとすぐ仲良くなれました。

一番あったのはボリビアですね。歩いているだけで、関係ない人に「アジア人汚い」と罵倒されたり。特にサッカーでいうと、みんなサッカーしかやってなく、英語も全然分からなかったりして、日本人も中国人も韓国人も情報がないから彼らからすれば違いは全くなくて、アジア人は丸ごと下に見ているという印象を受けました。隣国でもパラグアイは結構親日でした。あとは、自分が全然スペイン語が分からなくて、言語が分からないがために弄ばれるような側面はあったと思います。下ネタを女性がいる前で言わされたりとか。言葉覚えるまで、人として認められるまでは、当時ボリビアは南米の中でも最貧国と呼ばれるくらい貧しかったこともあって、自分もわざと毎日同じ服着て、同じ靴履いて、サッカーは100%やるということを意識していました。

徐々に信頼や関係を積み重ねていって、人として認めてもらえて、最後は仲良くなれました。一度仲良くなれると日本以上にファミリーとして接してくれるような感じはありましたね。一番大変だったのはボリビア。ただ、会社を休んで行っていたし、仕事で厳しいことも学んでいたこともあり、そんなに落ち込みはしませんでした。もうチャレンジできないと思っていたのに、サッカーができることの喜びがあったから耐えられました。


ボリビアのクラブハウス。過酷な環境でも“サッカーが出来ることの喜び”があったから耐えられた

– ボリビアはあまり他国の挑戦者はいなかったのでしょうか?

パラグアイ、アルゼンチン、ブラジルなどの近隣の国の選手がほとんどで、アフリカ系がほぼいなかったのもはじめてのことです。多分、海外の選手が敢えて挑戦するには貧しさであったり、標高が高かったり環境が厳しかったからではないでしょうか。でも、その分チャンスはあるということだと思うんですが。やっぱり香港とかタイとかは給料も相対的に良いですし、暮らしやすいし、こういう国には選手も集まりやすいと思います。

– 当初はアジアでの挑戦を中心にしていて、2008年に南米に場所を移したときはなんか考えがあったのでしょうか?

アジアは地理的に近かったし、物価もそんなに高くなく、日本人に対しての理解もある。仕事をしていた時期も夏休みや年末の休暇を活用してチャレンジしていたので、そんなに遠くになかなかいけないという事情がありました。1年間会社を休んで時間があるのであればチャンスが大きいところがいいという思いもありました。それで日本で知り合いの方に紹介してもらってパラグアイに行ったんです。ただ、上手くいかなくて隣国のボリビアに移りました。

ですので、別にそういう紹介話がはじめにあったからという理由だけです。会社を休んで1年間挑戦した2008年当初のプラン、最初の半年南米で力を付けて、残りの半年はインドでやってお金を稼いで、インドはサッカー選手の社会的ステータスも高いので人脈をつくって、当時パソナもインドに進出していたので、休職期間が終わったらパソナインドの仕事とか手伝ったりできないかなと考えていました。でも、実際はパラグアイでうまくいかずボリビアに移ったので、全然プラン通りにはいかなかったんですが。結局ボリビアには10か月いましたね。

– ボリビアでプロ契約を勝ち取るまでのドラマはあったんですか?

ボリビア入国時に一つ連絡を取っていたチームがあって、自分が食中毒で入院したときに、「今日来ないとダメだぞ」と言われ、お腹もまだ痛く体調が悪い中でしたが、なんとかそのチームの練習試合に行きました。パラグアイでは本来のフォワード(FW)で挑戦していたんですが、全然ボールが回ってこなくてアピールできなかったということもあり、同じ轍を踏まないようになぜかほとんどやったことのないセンターバック(CB)で参加することにしました笑。

相手チームがどんどんゴール前に蹴りこんでくるチームだったので、それをバンバンヘディングで跳ね返したり、体調が良くなかったこともあって頑張ろうという余計な気負いがなく、漏らさなければいいなくらいの気持ちでいました。そういうある意味自然体な気持ちでいたら、自分の身体とは思えないくらい良いプレイができました。ミスキックがナイスパスになったり、ドリブルでどんどん抜けちゃったり、どうしたんだろうと思うくらい疲れないし。で、それをたまたまチームのオーナーが見ていて、「あいつは凄いぞ。すぐに契約だ」と興奮して評価してくれたんです。こちらも「じゃあ、明日契約しましょう」となって契約を勝ち得たんです。


13カ国目のチャレンジでついにプロ契約を勝ち取った

国によっては1週間しか滞在しないこともありましたが、それまで通算12か国でチャレンジしてきて、ようやく初めてボリビアでサッカーの神様が微笑んでくれたのかなと思いました。なぜかCBで挑戦することを決めたりとか、相手がどんどんゴール前に蹴りこんでくれたりとか、オーナーがたまたま見ていたとか、色々な要素がその日に揃って実現した契約でした。続けていれば、絶対良いことがあるかは分からないけど、僕の場合は13か国目でそのタイミングが来て、ある意味報われたというのは感じました。

– プロ契約を勝ち取った後も、本来のFWではなくCBでプレイしていたんですか?

そうですね。たまに「昔FWやっていたからやらせて欲しい」とお願いしたりもしたんですが、監督から「ダメだ。お前はCBだ」と言われ、ダメでした笑。

– ボリビアでのプロ生活はいかがでしたか?

私がいたのはサンタクルス州だったんですが、ボリビアは全国リーグというリーグがJ1のように一番上にあって、私がいたのはその下の州1部でした。結構強いチームで全国リーグへの昇格をかけた入れ替え戦まで行ったんですが、結局負けてしまいました。そこで全国リーグに行けてたらまた人生がちょっと変わっていたかもしれませんね。

全国リーグで良い成績を収めていたら、南米クラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレスに出場できたりしたかもしれません。全国リーグになると、給料も10倍とか100倍になるので、本当に生活が一変する感じです。惜しかったのが、本当に入れ替え戦でも勝てるくらい強かったんですが、オーナーが最後の最後に監督をクビにしたんです。あとでその理由を聞いたら、何か昔から気に入らなかったとかよく分からない理由だったんです。で、チームのことを全然理解していない新しい監督に代わって、結果的にそんなに強くないチームに負けてしまった。前の監督が言っていたんですが、「俺は料理で例えるなら、スープから肉、ご飯まで全部お膳立てした。あとは食べるだけだったのに」。それくらいチャンスだったんです。


突然の監督交代はニュースにもなった

そのクビになった監督に気に入られていたので、監督が行く次のチームに自分も行くことになりました。そこでは、練習にはずっと参加していたんですが、最終的にはオーナー自ら連れてきたパラグアイの選手と契約することになり、政治やお金も絡んでいたと思うんですが。契約するかしないか曖昧な状況でもありましたし、パソナとの約束の期限の1年が近づいてもいたので、最後の最後、元横浜マリノスの10番だったバルディビエソが監督を務め、リベルタドーレスとかにも出場していた当時No.1のチームに挑戦しようと思いました。そこでプレーできたら人生が変わると思い、有名なチームでよくメディアにも取り上げられていたこともあり、どこのホテルに泊まっているか分かったので、待ち伏せしていました。そうしたら案の定選手やバルディビエソ監督が来たので話しかけたら、「よかったらおいでよ」と言われました。

チームの本拠地は、そこから飛行機で行かないといけないくらい遠い場所だったので、多分来るわけないと思って言ったんだと思うんですね。でも、住所をもらって3日後くらいには現地に行きました。そしたら「本当に来たんだね」と驚かれ、「しょうがないから、参加しろ」と言われて、最初は2軍に入れられました。ただ、結構プレイが出来たので、1軍に上げてもらって、そのあと1軍で2週間くらいやったんですが、もう日本に帰らなくてはいけないタイミングが来ました。でも、正直プレーはできるけど、契約は難しいと感じました。練習は全然ついていけたんですが、契約していたのは元アルゼンチン代表とかだったので、そういう選手を切ってまで自分と契約するとまでは思えなかった。それでタイムリミットだったので、打ち切って帰ることにしました。


元横浜マリノスの10番・バルディビエソと

リベルタドーレスに出るようなボリビアのトップオブトップでそこそこついていくことができて、自信にはなったんですが、まぁ結果が全てですね。もちろん、そこでしばらく練習を積んでから他のチームに行くという選択肢もあったとは思います。ただ、とてつもない葛藤は当然あったんですが、1年間本当に色々なことがあって、自分の中でやり切ったという思いもあったので、約束通り復職するということにしました。

– 色々な国で挑戦をしてきて、国によってご自身のプレイスタイルが合う・合わないというのはありましたか?

シンガポール、カンボジア、タイなどは合うと思いました。足元の技術はあっても、身長やフィジカルの強さがそれほどなかったので、自分の強みが活かせたと思います。一方、オーストラリアはみんな大きかったので一番しんどかったです。これまでは自分がFWでポストプレイをして相棒の小さいFWが裏に抜けるところにボールを出すようなプレイをしていたのが、逆になって今度は自分が裏に抜ける役割を果たす必要が出てきたんです。周りの方が強かったので、自分の身長の高さを活かすとか体を使ってキープするというプレイをすることが難しかったです。


カンボジアにて練習参加。アジアでは体格を活かすことができた

ボリビアは身長もフィジカルの強さもそれほどなかったので、自分の良さを活かせた部分はありますね。同じようなタイプの選手は少なかったですね。逆にボリビアの前にいたパラグアイはみんな大きく強かったので、しんどかったです。隣国でなんでそんなに違うのかちょっと理由は分かりませんが。少し行ったフィジーもラグビー文化からなのかみんなでかくて強かったので、こういうところは横浜F・マリノスの齋藤学選手のようなスピードがあってドリブルでどんどん勝負する選手が活きると思います。

– プライベート的な話にも切り込ませてください。これだけひっきりなしに海外挑戦していると彼女とのトラブルとかはなかったんですか?

うーん、あまりないですが、ボリビアから帰った後にお付き合いした彼女がいて、その彼女とは2-3年付き合っていて、そろそろ結婚という話も出ていました。ただ、自分としてはもう一度挑戦したいので待っていて欲しいという話をしたものの、それは受け入れられず結局ダメになってしまいましたね。

– 今、パソナでどんなお仕事をされていますか?

週2回ほど営業を担当しています。
それと共に5月からパソナスポーツメイトの仕事を担当しています。スポーツメイトでは、現役アスリートに派遣の事務の仕事などを紹介させて頂いたり、競技との両立の相談などを受けています。例えば女子サッカーですと、日中にアルバイトをして、19時頃から練習に励む選手が多いと思いますが、日中のアルバイトの部分をパソコンを使った事務のお仕事やアスリートならではのフットワークの良さなどを活かして営業の仕事をするなど、選手を辞めた後のセカンドキャリアに活かせるような仕事をマッチングするお手伝いができればと動いています。

あとは、学校とかでの講演活動や、雑誌やWEB媒体でのライター業ですかね。
まだライターと胸を張っていえる様な分際じゃないですが笑。頑張っていきます!


JFAの夢先生の活動にも参加させて頂いている

– 今後は年齢的な部分もあり、なかなかみんなが三浦知良選手みたいに長いキャリアを歩むのは難しいと思いますが、どういう仕事やサッカーに対するプランを描いていますか?

直近のやりたいことととしては、書くことでも話すことでもいいんですが、自分の失敗多き経験を特に子供達へ伝えたい。雑誌にあるヒューマンストーリーが昔から好きで、海外で挑戦する選手の記事とかを見て自分も勇気をもらっていたんです。

海外で頑張ってプレーしているのにあまり知られていない選手にスポットライトを当てていけるような活動や、これだけ色々な国へ飛び込んだので海外挑戦をこれからする方へアドバイスできることがあればさせて頂きたいとも思っています。

そしてあとは、一応今のところ選手としては最後インドで入院したところで終わっているので、終わり方として夢がない笑。短い大会に参加するとか、1ヶ月だけでもいいので、自分の強みが活きる国のリーグに挑戦し、観客がたくさん入った試合でプレイをするという目標をなんとか成し遂げたいと考えています。そして、その挑戦をまた自ら伝えていければ最高だなと考えています。

– 最後に、菊池さんにとってサッカーとはどういう存在でしょうか?

難しいですね…。サッカーは、なくてはならないものということでしょうか。今の友達もサッカーを通じて出会った人ばかり。この1週間出会った人を思い返しても、サッカー関連での出会いが95%。

ボリビア、パラグアイ、ラオスをはじめこれまで挑戦してきた多くの国とも、サッカーをやっていなければ一生縁がなかったと思います。中学2年生のときに1か月ほど学校に行かなかったときもサッカーをやりたいと思ったから、また学校に行けましたし、嬉しいことも辛いこともサッカーを通じて多くの経験をしてきました。まさに、人生そのものですね。


サッカーを軸にこれからも挑戦をし続ける

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