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海外プロリーグへ挑戦し続ける男・菊池康平さんインタビュー 後編

編集部

2015/10/11 21:00

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NEWS

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15カ国もの海外プロリーグへ挑戦し続けている菊池康平さんのインタビュー後編。
前編では菊池さんとサッカーとの出会いから主に大学生時代までのサッカーとの関わり、そして海外リーグへのアプローチの仕方などをお聞きしました。
後編では海外挑戦中のトラブルや現在のお仕事、そして将来の活動についてのお考えなど、様々なことをお聞きしました。

インタビュー前編

– これまで治安面などでこんな危険な目に合ったというトラブル経験はありますか?

オーストラリアでホームシックになって、夜公衆電話から電話して帰っていたら、後ろから車がずーっと追いかけてきて走って逃げたことや、マレーシアで夜屋台でご飯を食べ終わって帰っているときに、明らかに何か危なそうなものを持っている人に追いかけられたことはありますね。

あとは、ボリビアで夜のどが渇いたんですがそのとき現金を持っていなかったので、ATMで現金を下ろしてコーラを買って帰ろうとしたら、男2人に囲まれちゃって。スペイン語で色々言ってきたんですが、当時スペイン語がほとんど分からなくて、とりあえず握手をしてみました笑。それでも、向こうが「ディネロ、ディネロ!」と言っていて、ディネロがお金だということはかろうじて分かったんですが、英語で「スペイン語が分からないから英語で言ってくれ」と言ったら、向こうも痺れを切らして胸元から拳銃らしきものを出そうとしたので、「これはやばい!」と思って、思いっきり走って逃げました。そしたら、大通りに出て、車にひかれそうになってこっちのが危なかった、というオチつきの出来事がありました。

家に帰って、強盗の変な奴と握手しちゃったということで先ずは手を洗いました笑。このことを面白おかしくブログにアップしたら、それまで電話がなかったのに「何やってんだ!」と日本の親から心配されて電話がかかってきた笑。これが最大のピンチでしたね。

– 病気系のトラブルはいかがですか?

ボリビアの前にパラグアイにいたんですが、その練習参加していた地域が田舎すぎたこともあってあまり食事ができなくて、ボリビアに来て嬉しくて、たくさん食べたら、翌日激しい食中毒でお腹壊して、一日入院しました。あとは、昨年ラオスで犬に襲われたりとか、インドで原因不明の熱を出して入院したりとかは最近の話ですね。それまで病気は全然ありませんでした。

捻挫し病院へ(ボリビア) - ???
ボリビアの病院で治療を受ける

– 菊池さんが海外チャレンジするうえで必ず持っていくものはなんでしょうか?

電子辞書、地球の歩き方、それと最近は100円ショップで日本的なもの、例えば凧とか絵葉書とか扇子とか折り紙とか、こういうものをあげるとすごい喜ばれるので、いざというときに仲良くなるためのお土産として買うようにしています。

常備薬はあまり持っていきませんが、大きいバンドエイドとか足首が悪いので必ずテーピングは持っていくようにしています。テーピングは海外では意外と売ってなく、ボリビアにいるときは日本から送ってもらったこともありました。

– 言葉が障害になることはあったと思うんですが、差別とかはありましたか?

シンガポール、タイ、香港などの日本の情報が入りやすいアジアエリアではリスペクトがあって、嫌な思いをしたことはありません。オーストラリアでは、人自体は物凄い良かったんですが、サッカーとなるとみんな体が大きくて強かったので、はじめちょっと馬鹿にされたような雰囲気はありました。ただ、ある程度「こいつ戦えるな」と思われるとすぐ仲良くなれました。

一番あったのはボリビアですね。歩いているだけで、関係ない人に「アジア人汚い」と罵倒されたり。特にサッカーでいうと、みんなサッカーしかやってなく、英語も全然分からなかったりして、日本人も中国人も韓国人も情報がないから彼らからすれば違いは全くなくて、アジア人は丸ごと下に見ているという印象を受けました。隣国でもパラグアイは結構親日でした。あとは、自分が全然スペイン語が分からなくて、言語が分からないがために弄ばれるような側面はあったと思います。下ネタを女性がいる前で言わされたりとか。言葉覚えるまで、人として認められるまでは、当時ボリビアは南米の中でも最貧国と呼ばれるくらい貧しかったこともあって、自分もわざと毎日同じ服着て、同じ靴履いて、サッカーは100%やるということを意識していました。

徐々に信頼や関係を積み重ねていって、人として認めてもらえて、最後は仲良くなれました。一度仲良くなれると日本以上にファミリーとして接してくれるような感じはありましたね。一番大変だったのはボリビア。ただ、会社を休んで行っていたし、仕事で厳しいことも学んでいたこともあり、そんなに落ち込みはしませんでした。もうチャレンジできないと思っていたのに、サッカーができることの喜びがあったから耐えられました。

ボリビアクラブハウス
ボリビアのクラブハウス。過酷な環境でも“サッカーが出来ることの喜び”があったから耐えられた

– ボリビアはあまり他国の挑戦者はいなかったのでしょうか?

パラグアイ、アルゼンチン、ブラジルなどの近隣の国の選手がほとんどで、アフリカ系がほぼいなかったのもはじめてのことです。多分、海外の選手が敢えて挑戦するには貧しさであったり、標高が高かったり環境が厳しかったからではないでしょうか。でも、その分チャンスはあるということだと思うんですが。やっぱり香港とかタイとかは給料も相対的に良いですし、暮らしやすいし、こういう国には選手も集まりやすいと思います。

– 当初はアジアでの挑戦を中心にしていて、2008年に南米に場所を移したときはなんか考えがあったのでしょうか?

アジアは地理的に近かったし、物価もそんなに高くなく、日本人に対しての理解もある。仕事をしていた時期も夏休みや年末の休暇を活用してチャレンジしていたので、そんなに遠くになかなかいけないという事情がありました。1年間会社を休んで時間があるのであればチャンスが大きいところがいいという思いもありました。それで日本で知り合いの方に紹介してもらってパラグアイに行ったんです。ただ、上手くいかなくて隣国のボリビアに移りました。

ですので、別にそういう紹介話がはじめにあったからという理由だけです。会社を休んで1年間挑戦した2008年当初のプラン、最初の半年南米で力を付けて、残りの半年はインドでやってお金を稼いで、インドはサッカー選手の社会的ステータスも高いので人脈をつくって、当時パソナもインドに進出していたので、休職期間が終わったらパソナインドの仕事とか手伝ったりできないかなと考えていました。でも、実際はパラグアイでうまくいかずボリビアに移ったので、全然プラン通りにはいかなかったんですが。結局ボリビアには10か月いましたね。

– ボリビアでプロ契約を勝ち取るまでのドラマはあったんですか?

ボリビア入国時に一つ連絡を取っていたチームがあって、自分が食中毒で入院したときに、「今日来ないとダメだぞ」と言われ、お腹もまだ痛く体調が悪い中でしたが、なんとかそのチームの練習試合に行きました。パラグアイでは本来のフォワード(FW)で挑戦していたんですが、全然ボールが回ってこなくてアピールできなかったということもあり、同じ轍を踏まないようになぜかほとんどやったことのないセンターバック(CB)で参加することにしました笑。

相手チームがどんどんゴール前に蹴りこんでくるチームだったので、それをバンバンヘディングで跳ね返したり、体調が良くなかったこともあって頑張ろうという余計な気負いがなく、漏らさなければいいなくらいの気持ちでいました。そういうある意味自然体な気持ちでいたら、自分の身体とは思えないくらい良いプレイができました。ミスキックがナイスパスになったり、ドリブルでどんどん抜けちゃったり、どうしたんだろうと思うくらい疲れないし。で、それをたまたまチームのオーナーが見ていて、「あいつは凄いぞ。すぐに契約だ」と興奮して評価してくれたんです。こちらも「じゃあ、明日契約しましょう」となって契約を勝ち得たんです。

ウニベルシダと契約
13カ国目のチャレンジでついにプロ契約を勝ち取った

国によっては1週間しか滞在しないこともありましたが、それまで通算12か国でチャレンジしてきて、ようやく初めてボリビアでサッカーの神様が微笑んでくれたのかなと思いました。なぜかCBで挑戦することを決めたりとか、相手がどんどんゴール前に蹴りこんでくれたりとか、オーナーがたまたま見ていたとか、色々な要素がその日に揃って実現した契約でした。続けていれば、絶対良いことがあるかは分からないけど、僕の場合は13か国目でそのタイミングが来て、ある意味報われたというのは感じました。

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