海外プロリーグへ挑戦し続ける男・菊池康平さんインタビュー 前編

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Shootyのインタビュー企画がスタートです。記念すべき第1回のゲストには、働きながら海外のプロリーグへの挑戦を続ける、元ボリビアのプロサッカー選手・菊池康平さん。

菊池さんは、大学1年生の時から海外リーグのプロ選手になるべくアジアを中心に挑戦を続け、その数なんと15ヶ国にのぼります。2008年には遂に南米・ボリビアでプロ契約を勝ち取ることに成功されました。
(挑戦した15ヶ国は順に、シンガポール・香港・オーストラリア・タイ・マレーシア・ブルネイ・モルジブ・マカオ・ベトナム・カンボジア・フィジー・パラグアイ・ボリビア・インド・ラオス。複数回挑戦した国もあり)

なにが菊池さんをそこまで突き動かし、これまでどのような過酷な環境を乗り越え、挑戦を続けてきたのか。また、今後の菊池さんの活躍の方向性についても迫っていきたいと思います。

– そもそも海外リーグへの挑戦を始めたきっかけについて、教えてください。

高校3年生の秋にたまたま地元でシンガポールリーグのトライアウトがあるのをサッカー雑誌で知って受けに行ったんですが、そこにはJリーグとかJFLで経験のある選手が同じように受けに来ていました。結果はダメだったんですが、シンガポールリーグなんてあるんだという発見がありました。2000年だったと思います。

翌年大学に入学し最初の夏に、早速シンガポールリーグに挑戦しに行きました。しかし、結果は上手くいきませんでした。挑戦のコーディネートをしてくれた業者が密な対応とは言えませんでした。はじめユースチームのようなところに入れられ、わざわざ外国人として来てユースにいても意味がなく、トップチームで活躍しないとプロ契約できないので、自分で監督に話して、「埒があかないからトップに入れてくれ」とお願いしたら、入れてくれました。このとき、自分で英語さえできれば業者に頼らなくてもいけるんじゃないかと思いました。


シンガポールでの練習試合

また、そのときブラジル人やらクロアチア人やらナイジェリア人やら色々な外国人選手と話している中で、シンガポールだけではなく香港、タイ、インドなど色々な国にプロリーグがあることを知り、彼らから「お前はまだ若いし、諦めないで色々挑戦してみなよ」と言われ、ものすごい視野が広がった気がしたんです。

当時メジャーでない海外リーグに関する情報なんて全然ありませんでしたが、実際に行くことで情報を得ることができましたし、Jリーグよりは門戸が広く、英語さえできれば練習参加くらいはできそうだという感触をつかめたのは大きかったですね。ただ、そのときは結局プロ契約を勝ち取れず、一方でシンガポールでプロ契約している日本人の選手もいて、そういう選手が出てる試合を観て、悔しい思いをしました。

そのとき「いつか自分も絶対ピッチに立つぞ」という目標を持ちました。2,000〜3,000人しか入らないピッチであっても、埋まると結構華やかなんです。その後、プロ契約するという一つの目標はボリビアで達成できましたが、まだたくさんお客さんが入った試合でプレイをするという目標は達成できていないんです。

– 海外ではサッカー選手が国をまたいでリーグを転々とするのは割と普通なんでしょうか?

普通だと思いますね。ブラジルやナイジェリア、カメルーン、ユーゴ、クロアチアといった国の選手は割と色々な国にいたと記憶しています。「あっ、お前以前どこか別の国で会ったな」と思わぬ再会をすることもありました。

多分彼らは自国のリーグの給料が安いため、例えばアフリカ系の選手だったらアジア人にはない身体能力の高さを活かすことができて重宝されるので、高い給料を出稼ぎに来ていたと思います。ブラジル人でも国内だとレベルが高く厳しいので、アジアに流れて来ていた人も結構いると思いますね。


プノンペンにて。サッカーを通じて様々な出会いがある

– 菊池さんとサッカーの関係について、もう少し遡らせてください。高校3年生の時にシンガポールリーグと出会うまでのサッカーとの関係について教えてください。

1番初めは、私自身は記憶はないんですが、幼稚園の頃にサッカーのユニフォームを見て格好良いと思って、「ボールを蹴らせて」と親にお願いしたみたいです。そこで初めてボールを蹴って、小学生になってからは休み時間とかに遊びでサッカーをするようになって、周りは当然サッカーなんてやったことなかった一方で、自分は少しだけ幼稚園のときにボールを蹴っていたということもあり、他の子よりちょっと上手くできたんだと思います。そのとき、上手くできたからこそ、好きになったんでしょうね。それで、5年生くらいで地元のチームに入り、中学校ではサッカー部に入りました。

中学2年生のときに視力が落ちてきて、ストレスを感じるようになり、足が速かったこともあって一度サッカー部から陸上部に移りました。でも、やっぱりサッカーがやりたくなって、クラブチームを探して入りました。これが一番最初に自分で行動してチームを探してアプローチをするという経験でした。元Jリーガーが教えてくれるという当時できたばかりのチームだったんですが、ここではじめてサッカーというスポーツについてやトレーニング方法をちゃんと学んだ気がします。

– シンガポールリーグにチャレンジするまではJリーグを目指していたんでしょうか?

そうですね。1993年にJリーグが開幕してからは、Jリーガーになりたいと思っていました。中学3年生のときにはヴェルディやらマリノスやら6チームくらいJリーグのクラブのユースチームを受けていましたがなかなか合格できず、最後にFC町田ユース、現在のFC町田ゼルビアの前身のチームに拾ってもらえました。技術はありませんでしたが、短距離走の項目があって救われたみたいです。

ただ結局レベルが高く、1年間試合に出れなくて、「このまま終わっちゃうかもしれない」と思って、また自分でチームを探しました。柏レイソル青梅というチームに電話したら、セレクションの時期は既に終わっていたんですが練習参加が許されて、そのままユースに入れてもらうことができました。

– 行動すれば何かしら突破口があるということは、早い時期から学んでいたということなんですね。
普通ならどうアプローチしていいかわからないし、諦めちゃうことが多いような気もします。

実は、中学2年生のときに1ヶ月くらい学校を休んでいた時期があるんです。陸上部へ浮気したくらいの頃ですね。将来への不安とか迷いがあって、「自分は本当は何がしたいんだ?」と考えていたときに、三浦知良選手みたいに強くなりたいと思ったんです。15歳で単身でブラジルに行って、プロになって、スターになった。このとき、カズ選手への憧れからか“海外挑戦”という想いが植えつけられたのかもしれません。

それで、やっぱりサッカーをしたいと思ったんです。ここが自分の挑戦の原点だと思います。友達に「サッカーやろうぜ。学校に来いよ。」と誘われ、再びサッカーをプレイすることを通じてちゃんと立ち直れたので、本当にサッカーに救われたと感謝しています。


サッカーをやっていなければ、ラオスに来ることもなかったかもしれない

– 菊池さんは中学受験をされていて、大学も明治大学に進まれてることを踏まえると、ご家庭としては教育熱心だったんじゃないでしょうか?学業との折り合いはどうされていたのでしょうか?

おっしゃるとおりで、今考えると教育熱心な家庭だったと思います。正直言って、中学受験も自分がしたかったわけではなく、サッカーが一番やりたかった時期に、塾に行かされることでサッカーを制限されたり、やりきれない想いが当時はありました。高校に入ってからも大学進学を考えなくてはいけなくなって、附属の高校だったのですが学内の成績がそれなりに良くないと内部進学できないシステムで、親からはその基準を満たさないとユースは辞めさせると言われていました。

そういうこともあって、高校3年生のときにクラブチームから学校の部活に戻りました。人から見ると破天荒な人生を歩んでいるように映るかもしれませんが、その源は教育熱心な家庭に育った反動からかもしれません。

今となっては、もちろん親には感謝していますが、当時は勉強させられているという気持ちもあって、「世界を見たい」「冒険したい」という想いが出てきたんだと思います。そういった想いと、中学2年生の頃の学校に行かなかった時期にカズ選手の生き方を詳しく知ったことがリンクして、挑戦する想いが湧き出てきたんだと思っています。

– 親御さんもどこかのタイミングで自分たちがこれ以上は踏み込むのは止めようと判断すると思うのですが、それはいつくらいから感じましたか?

ちょっと変わったのは、高校でFC町田ユースに入ったり、自分で柏レイソル青梅に移籍したあたりでしょうか。決定的に変わったのは、大学入ってからですね。

大学1年生の夏にシンガポールに挑戦したときは、「大丈夫なのか?」と心配されましたが、2か国目の香港、その後のオーストラリアのときはもう何も言いませんでしたね。このときは応援してくれていたと思います。


プノンペンにて。誰かの人生を生きているわけじゃない。自分の人生を生きているんだ

– 就職を考えなくてはならない時期には、自分の将来についてどう考えていましたか?

当時は、大学を卒業してすぐ就職という普通の波には乗りたくありませんでした。色々な世界を見てきて価値観に変化が生まれ「そうじゃなくてもいいんじゃないか?」という気持ちがありましたね。卒業後2年くらいはワーキングホリデーなどで海外で働きながら、海外リーグにチャレンジして、ダメだったら諦めて就職しようかと思っていました。

ただ、大学3年生の就活の時期に親や周りの人から「サッカーに逃げている」みたいなことを言われたんですね。「そうじゃない。就職できる自信はあるけど、どうしてもサッカーをやりたいからギリギリまでチャレンジしたい」と話したんですが、就職できることを示すために就活もすることにしました。

当初はやりたいことが分からなかったので、色々な会社を見ようと海外で培った飛び込み根性で80社くらい業種もバラバラで受けまくっていました。一貫性や熱がないことを悟られたんでしょうね。次から次へと落ちて、さすがにそんなに世の中甘いもんじゃないなということを学びました笑。なんとかパソナから内定を頂くことができ、パソナは社長の話も面白かったし、内定者が海外でボランティアをやってたり、NPOをやってたり、何となく自分と近いというか、面白い人が多かったんです。


現在もパソナに籍をおいており、様々な活動をしている

内定式の前日までタイ、卒業式の前日までマレーシアでチャレンジはしていたんですが、それでもダメだったので良い仲間もいましたし、まずは働いてみようと考えました。

– もし入社前に海外挑戦で良い結果が出ていたら、働いてなかったですか?

そう思いますが、どうでしょうか。変に社会性を持ち始めていたこともあって、もし3万円とか5万円の給料だったら分からないですね、今となっては。

– ところで、菊池さんは大学の時は何を専攻されていたのでしょうか?

文学部史学地理学科地理学専攻という凄いマニアックな専攻でした笑。附属の高校から大学に内部進学できるのも半分強で、色々な学部がある中でも文学部は他の学部より競争率が低かったんです。自分は国語や本を読むことが好きだったので、ライバルも少ないし、好きと言えば好きな分野だったこともあり文学部にしようと思いました。

ただ、ギリギリの成績だったので、特に史学地理学科、中でも地理学専攻は競争率が低く、地理の授業も好きだったのでここにしようと笑。地理学のパンフレットを見たら色々な国を訪れ、石を探したり発掘すると記載されていて、「色々な所に行けるのかー」と思って、「地理やります!」と言って入ることができました。浅はか過ぎて、恥ずかしい限りです・・・。


大学生活もほとんど全てサッカーに費やした

– 実際に地理学専攻に行ってみてどうでしたか?

地獄でしたね笑。川に流れている石とか砂を集めて測量したり、理解はしようと一生懸命に取り組んだのですが、断面図とかどうしても書くことができず苦しんでいました。どれだけ頑張って授業を聞いても、等高線や断面図を書くテストでは0点とか、本当に辛かったです。授業を聞いてもロクに分からないし、全然面白くないし、それでも出席はしないといけないので、本当に辛かった。なので1,2年は大学に週2とかしか顔を出していませんでした。結局最後にツケが来て、4年生のときに週6で学校に行く羽目になりましたが・・・。

– 学業以外にバイトやらサークル活動やら大学生らしい生活はしていたんでしょうか?

バイトはたくさんやっていました。海外挑戦のお金を貯めるためにジムのインストラクター、パン、ケーキ屋、警備員、塾の先生などなど。頑張ってもどうしても理解できない授業に出るよりも、バイトの方が刺激的で成長できると思っていました。

– メジャーではない海外のプロリーグの情報が当時なかなかない中で、どのようにチャレンジする国を決めて、チームの練習に参加したり、テストを受けるまでに至ったんですか?

香港などは「足」「球」「蹴」みたいにサッカーを連想させる漢字が書いてあるサイトを探したんです。そういうサイトにカレンダーっぽいものがあって、シーズンのスケジュールを知りたいので、例えば開幕戦が8月10日だったら、6月の半ばや7月くらいから練習をやるだろうと予想をつけて行ってました。

怖いのは、例えば当時フィジーであったんですが、前年と同じスケジュールでシーズンが行われないリーグもあったりするんです。ただ、まぁはじめは結局ネット頼みでした。英語のサイトはもちろん、Yahoo香港のように現地に特化したポータルサイトだったり、とにかく色々な検索の仕方をして、小さな情報でもどんどんノートに貯めていきました。あとは、現地で知り合った選手に他国リーグの情報とかいつからいつまでやってるとかも聞いて、それらを参考にどんどんネットで検索かけていく。


現地の情報はとにかく手探りで得ていった

それでもフィジーのようにはずれがあったり、移籍期間があったりもします。例えば、8月10日開幕だとしたら7月末までしか、選手登録できないとか。そんな情報は意外とどこにも書いてなかったりします。意外とシーズン開始の直前まで練習をはじめないとか、意外とかなり前からやるとか、本当に国によって違うんです。正直行ってみないと分からないという部分もありますし、去年の情報自体が当てにならないこともありました。当時は、その他の海外の選手も含め誰しもが同じ状況だったと思います。

ある意味、今よりも行った者勝ちというのはあったんじゃないでしょうか。行ってみて、実は今年はシーズンが早まって、「来月から試合あるけどまだ外国人が取れてないからおまえ入るか?」といったことがなきにしもあらず。今よりも動いた方が勝てるという時代だったと思いますね。

– あたりをつけてとりあえず現地に行ってみて、じゃあそこから練習やプロテストに参加するためのチーム探しは具体的にどうしていたのでしょうか?Jリーグとかで、いきなり「練習参加させてくださーい!」と押しかけても参加させてもらえないと思うんですが。

例えば、香港ではサッカー協会に行って住所や連絡先の書いてあるチームリストをもらいました。サイトを見たりすると去年の順位とかが載ってるので、順位の低いチームからアプローチしていました。うまくいっている上位のチームだとあまりもうチームをいじらないのかなとか思って。面白いのが、リストの連絡先としてオーナーや監督の携帯の番号が載っているんです。そこにかけると、「今年は違うチームに行くんだよ」とか会話がかみ合わないこともありました笑。そのあとに行ったオーストラリアとかでも、監督の連絡先が載ってたので電話して、「お前誰だ?」みたいな感じになって、名前とか身長とか大体定番で聞かれることをあらかじめ用意しておいて、事情を説明しました。


カンボジアにて。とにかく行動あるのみ。行動しないと何も始まらない

その際、英語でまくしたてられても分からないので、必ず先に聞いていたのはグラウンドの住所と最寄り駅。それで地図を買って、グラウンドに行ってました。聞き取りミスで、行ってみたらグラウンドなんてなかったりということもありました。でも、なんとか現地で1チームでも練習に入れちゃえば、そこで友達ができて、電話番号交換したりして色々聞けたりするんで、最初の1チーム目が肝心ですね。

– そんな簡単に練習に参加できちゃうものなんですか?

練習には大体参加できますね。ポイントは着替えた状態でいくことだと思います笑。スパイクもあらかじめ履いて行って、選手に「よぅ」と握手していって、「監督は誰だ?」と聞いて、監督のところに行くと、上から下までじっと見られて、「もう着替えているんだったら、仕方ないから今日は練習に参加していけ」なんて言ってくれて。そこでいいプレーを見せれば、「明日も15時から練習しているからまた来い」と言ってもらえたりします。その積み重ね。

「来週末練習試合にオーナーが来るからそこに来て結果を出せ。オーナーが認めれば契約できるぞ」と発破をかけてくれたりします。ただ、中にはマレーシアで初日に「お前もう来なくていい」と切られたこともありました。

– さすがの菊池さんもその場合はもう行かないんですよね?笑

でも、オーストラリアで一度合同トライアウトで、紅白戦やって、良かった選手だけが名前呼ばれて明日来いっていうときに、名前呼ばれなかったんですが、英語が分からないふりして行ったことはあります。「おまえ、名前呼ばれてないだろ」って言われたんですが、英語が分からないってことで、「もうしょうがないから出ろ」って言われて、そこで3得点しちゃって、「お前いいね」ってことでまた呼ばれたりとか。トライアウトみたいな形だとそういう英語分からないふりって方法が通じたこともありますね笑。

– ハートの強さが半端ないですね笑

失うものがなかったので笑。まぁ本当に日本よりは全然チャンスあると思いますよ。シンガポールとかもさすがに今はもっとリーグ環境も整備されていると思いますが、自分から行けば1日は絶対チャンスもらえると思います。


カンボジアにて。恥ずかしがって行動しなければ、なにも起きないが、行動すれば道が開けるかもしれない

 

後編では海外挑戦中のトラブルや現在のお仕事、そして将来について、様々なことをお聞きしました。

海外プロリーグへ挑戦し続ける男・菊池康平さんインタビュー 後編

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