サッカー選手は、さながら宝石や宝物に例えられる事があります。クラブや地元民から愛される存在で、チームにとって欠かせない存在の選手が例えられます。
浦和レッズには、ジュニア・ユース、ユースという下部組織から育成し、トップ・チームに昇格して、クラブの顔となる存在となった宝と呼ばれる選手が数名います。
筆頭格はブンデスリーガ1部ヘルタ・ベルリン所属の原口元気選手。そして2部FCインゴルシュタット04に所属する関根貴大選手。
更にこの程、レンタル移籍していた宝の復帰が決定しました。湘南ベルマーレから復帰が決定した山田直輝選手です。若くして日本代表に選手されて浦和レッズでの将来を嘱望された選手です。
多くの浦和レッズ・サポーターが復帰を待ちわびていた浦和レッズの宝・山田選手をご紹介致します。
昨日は元気のお別れ試合でした。でも元気と同じチームで試合するのが、昨日で最後、という感じは全く無かったので、全然寂しさはありませんでした。
いつかレッズでまた会えるでしょう! pic.twitter.com/RvBoDcOngN— 山田直輝 (@yaaaman34) 2014年6月2日
2008年10月13日
筆者が初めて山田直輝選手を知ったのが、この日の埼玉スタジアム2002でした。天候は晴れ。陽光降り注ぎ、10月の天気としては暖かい気温24度の埼玉スタジアム2002のピッチ上に、山田選手はいたのです。高円宮杯第19回全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会の決勝戦という舞台でした。
高円宮杯は、中高生サッカークラブの頂点を競う全国大会で、天皇杯の中高生版と考えて頂いたらわかり易いと思います。ですから、公立私立を問わず全国の学校のクラブとJリーグの下部組織も参加する、この年代の日本一クラブを決する大会です。
U15とU18と言う二つのカテゴリーに分けられていて、この日の大会はそのU18カテゴリーの決勝戦。相手はこちらもJリーグの下部組織である名古屋グランパスU18。もちろん山田選手は浦和レッズユースの一員でした。
結論から申し上げると、浦和レッズユースが9対1というスコアで優勝しました。圧倒的な力量差の勝利でした。
山田選手の背番号は8。チームの主力MFとして出場し、6本のシュートを放ち、ハットトリックを決めます。結果、大会合計8得点で得点王に輝きました。
浦和レッズユースの戦い振りは見事でした。ピッチに勢ぞろいした段階から、観客席にまで選手の余裕が感じられました。大きな大会の決勝に臨むプレッシャーなどどこ吹く風も様相。1万人を超えた観客の埼玉スタジアム2002のピッチでプレイできる喜びに満ちている事が伝わって来ました。浦和レッズ・ユースの選手にとって、聖地埼玉スタジアム2002のピッチに立ってサッカーをする事自体が、子供の頃からの夢であったに違いありません。そんな想いが、キックオフ直後から見事に体現されていました。
楽しげにボールを回し走り回る選手達は躍動感に満ちていました。浦和レッズユースは、前半4分に早々と先制点を決めます。それが山田選手でした。その後も縦横無尽に走り回り、シュートを放ち、パスを繰り出し、八面六臂の活躍で、優勝の立役者となったのです。
優勝の翌日、2017年10月14日に、この大会で優勝したユース・チームから、4人の選手をトップ・チームに昇格させると、クラブから発表がありました。山田選手の他、高橋峻希選手(現・ヴィッセル神戸)、永田拓也
選手(現・横浜FC)、濱田水輝選手(現・アビスパ福岡)の4人です。
この4選手以外にも、その後トップ・チームに昇格する選手が3人いました。原口元気選手(現・ヘルタベルリン)、岡本拓也選手(現・湘南ベルマーレ)、*阪野豊史選手(現・モンテディオ山形)の3人です。
この様に、この大会に優勝したメンバーは、山田選手以外も個々の能力が高い選手が集結していた事が、その後の各選手の活躍からもわかります。
浦和レッズでの将来を嘱望される、若き勇士の中でも、とりわけ輝いていた選手が山田選手でした。山田選手18歳の秋のことでした。
*阪野選手は、ユースから明治大学に進学し、大卒選手としてトップ・チームに入団。
19歳でA代表に鮮烈デビュー
高円宮杯決勝から遡ること半年前の2008年4月26日。実は山田選手は17歳9ヶ月22日の高校生Jリーガー(二種登録選手)として、この日にトップ・チームでデビューを果たしていました。京都サンガFC戦後半35分の事でした。
然しながら、この年のJリーグ出場試合は、この試合を含めて2試合。将来を嘱望された山田選手であっても、前年にアジア王者に輝いていたトップ・チーム・メンバーの牙城を崩すには、まだ時が必要でした。
高円宮杯にユース・チームとして優勝した翌年、2009年のシーズンから、山田選手は大々的に全国レベルでその存在を知られる事になります。正式にトップ・チームに昇格した上に、フォルカー・フィンケ氏が監督に昇格した事が、チャンスを広げてくれたのです。
2008年シーズン序盤、前年アジア王者を勝ち取ったオジェック監督が異例の更迭となり、エンゲルス氏がコーチから昇格するも、ちぐはぐな戦いに終始し、アジア王者は一年にして瓦解しかかっていました。
フィンケ監督は、混乱したチームの建て直しをはかりつつ再び優勝を目指すという、二つの大きなミッションを与えられて就任していました。フィンケ監督の大きな監督判断の一つに、若手の積極起用がありました。
折りしも、ユース・チームから山田選手を含めて合計4人が昇格していたタイミングでフィンケ監督が就任した事で、山田選手はチームを活性化するニュー・フェイスとして多用されます。
既にU15から各世代の日本代表経験を持つ山田選手は、シーズン開幕直後の5月のキリン・カップに、当時の日本代表監督であった岡田武史氏によって初めてA代表に選手されます。
そしてチリ戦の後半から代表初デビューを果たし、本田圭佑選手(CFパチューカ)のゴールをアシストするという、鮮烈なデビューを飾ったのです。相手ゴール正面から、シュートを放つとみせかけて、一転フェイントで右サイドの本田選手にパスを出すという、技ありのアシストでした。
ゴールを決めた直後、スタンドに歩みかけた本田選手が指をさしながらわざわざ戻って、見事なアシストを決めた山田選手を称えていたのが印象的でした。一躍全国に山田選手の存在が知れ渡ったゲームになったのです。
アスリートのジレンマ
成人前に日本代表に選出された山田選手の将来は、前途洋洋に思えました。ところがその後、多くのアスリートも経験する、怪我に悩まされてしまうのです。
腰椎分離症という持病を抱えていた事もあるとはいえ、無理をしながらリーグ戦の出場を継続し続けなければならないというプロ・アスリートの宿命が、次第に山田選手の怪我からの復帰を難しくしてしまいます。
2011年には、フィンケ監督の後任として着任したゼリコ・ペトロヴィッチ監督の戦術配置によって、縦横無尽にピッチを駆け抜ける山田選手の特徴が封じられて、持ち味を発揮できなくなり、次第にプレイに切れが失せてしまいました。
2012年には左膝前十字靭帯損傷全治約6ヶ月の怪我を負ってしまい、2014年までの3シーズンで8ゲームにしか出場できないという結果に陥ります。
19歳でA代表に選出され、浦和レッズでも日本代表でも、将来を嘱望された山田選手は、とうとう2015年に浦和レッズを離れることになるのです。
どんな経験もマイナスになることはないと思うんです。 #山田直輝 #浦和レッズ #日本代表候補 #2018年 pic.twitter.com/utTaFBYYdu
— Road to 2018WorldCup (@football_golazo) 2017年12月12日
レンタル移籍で得た自信
2015年、山田選手は、坪井慶介選手と共に湘南ベルマーレに移籍します。坪井選手は完全移籍、山田選手は一年間のレンタル移籍でした。
所属チームで出場機会の少ない選手が、出場機会を求めて用いる手法がレンタル移籍という、保有権を派遣元クラブが維持する形式の期限付き移籍です。
浦和レッズとしては、手放せる選手では無いものの、選手層の厚い現状下では出場機会を与えられず、選手生命を失わせない為の苦肉の策です。
つまり、レンタル先で出場する事で、コンディションを維持し、結果を残し、経験と実績を得て、チームに戻ってもらう施策です。
ですから、あくまでも移籍先で出場する事が大前提にあります。万が一レンタル先でも出場機会が得られなければ、原籍クラブに戻って来れない可能性もあるのです。
必ず浦和レッズに戻れるという保証の無い、リスクを賭けたレンタル移籍に、山田選手は挑んだのです。
初年度の出場機会は17ゲーム。直近3年間で8ゲームだった事を思えば、上々にも映る実績ですが、浦和レッズよりリーグ順位下位クラブへの移籍として考えると、決して多い出場数ではありませんでした。
一年の期限付き移籍だった筈が、湘南側の要望もあって、レンタル期限が延長されます。2年目の出場機会は11ゲーム。初年度を下回る結果に陥ります。しかも、チームはJ2降格。
2年の移籍満了時点で、浦和レッズとしては、復帰判断をしませんでした。山田選手は、選手生命を賭けてのJ2での闘いに臨まざるを得ませんでした。
浦和レッズ時代にコンディションを崩した要因であった怪我の兆候は見られないのに、ここまで出場数を落とした原因には、曺貴裁監督の目指す戦術にフィットしない山田選手のサッカー感があったと感じざるを得ません。
今シーズン第36節を終えた時点で山田選手は、「方向性ですよね。例えるならバルセロナをめざすか、ドルトムントやアトレチコ・マドリードをめざすか。曺さんは後者を選ぶ。感動を与えられるのは後者だと僕も思う。どちらが正しいか、ではなくて。僕も昔は前者の方が楽しいと思っていたけど、気づきました。後者はね、勝った時のやりきった気持ちがすごい」
「以前(の浦和レッズ時代)なら組み立てに重きを置いていたのが、ここではゴール近くで最後の仕事にこだわるようになった」と言い切っています。
タレント豊富でビッグ・クラブの浦和レッズと、規模が下回り昇格降格を繰り返す湘南ベルマーレの、必然的なサッカースタイルの違いを悟り、自らがチームにフィットできるまでに3年を要したのでしょう。
J2優勝を果たし、チームをJ1に昇格させた今シーズン、山田選手は自己最多となるシーズン39ゲームに出場して、ここ数年の自分を振り切った感があります。
おかげさまでJ2優勝・昇格決まりました!ありがとうございます! #bellmare #高山薫 #端戸仁 #bellmare背番号12 pic.twitter.com/y6nS2POVpk
— 山田直輝 (@yaaaman34) 2017年10月29日
目的は勝つため
浦和レッズと湘南ベルマーレ、このほど山田選手のレンタル移籍の満了と、浦和レッズへの復帰を発表しました。
レンタル移籍した選手の常だと思うのですが、古巣に戻る複雑な心情が去来するでしょう。3年間温かく見守り応援してくれた湘南ベルマーレのサポーターに対しては、去りがたい惜別の感情を、古巣で恩返ししたいと吐露しています。
「湘南で培った、湘南で育った身体でもう一度、浦和でチャレンジしたい。前の僕じゃないことを浦和のサポーターに見せたい。また湘南のサポーターには、湘南で培ったものが浦和でも通用することを証明したい」と。
浦和レッズの宝が自信を取り戻して、3年振りに古巣に戻って来るのです。サポーターからすると、待ちに待った(山田)直輝選手の復帰です。
クラブとしては戦力として期待したからこその復帰である事は間違いありませんが、一方で山田選手にとってはチャンスと共に大きな試練も待ち構えています。それはアジア王者クラブの厚い選手層という壁です。現在の浦和レッズでは、山田選手と同じMFのポジションには、多数のタレントが存在しています。
筆頭格は司令塔の柏木陽介選手。浦和レッズで最も要の選手と言えます。
そして、心境著しい運動量豊富な現日本代表の長澤和輝選手。
一足先にレンタル移籍から復帰した、ゲームコントロールと攻撃の両面の能力に長けた、下部組織と小学校の後輩である矢島慎也選手。
守備的ボランチの要である青木拓矢選手。
これらの選手から、スタメンの座を奪うのは、並大抵のことではありません。しかし、山田選手の決意は固いのです。
「昔の山田直輝ではなく、成長した山田直輝を埼スタで見せることが恩返しだと思っています。浦和レッズに帰って来たことがどういうことなのか、僕なりに整理はできています。勝つために帰って来ました。リーグ制覇を目指してまた共に戦ってください。よろしくお願いします」
”勝つため”。それは自分に勝つ。ライバルに勝つ。相手チームに勝つ。スタメンをつかみ、チームを優勝に導き、日本代表に復帰する事を意味していると、筆者は読み解いています。
3年のレンタル移籍で得た成果を、クラブもサポーターも待ち望んでいます。童顔だけど、もう27歳。サッカー選手としての真価が問われる年代です。
楽しみな選手がアジア王者に戻って来てくれました。
MF山田直輝(27歳)が、湘南ベルマーレへ期限付き移籍を終了し、2018シーズン、浦和レッズに復帰することになりましたので、お知らせいたします。
■詳しくは→https://t.co/vOugrEbl5l#urawareds #浦和レッズ pic.twitter.com/6BTkTo7UHg— 浦和レッズオフィシャル (@REDSOFFICIAL) 2017年12月7日