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ガンバ大阪史上最高傑作と評された男が川崎フロンターレに!家長昭博選手の軌跡

扇ガ谷 道房

2017/01/14 22:06

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NEWS

どんな分野にも早熟の天才児が存在しています。その分野で生涯天才として君臨する場合もあれば、早熟だっただけでその後の人生では目立たなくなる事も多々あります。
メディアに翻弄されるケースも少なからずあるものの、各分野で天才的な力量を発揮してその存在意義を維持することの難しさを証明しています。
Jリーグにも早熟の天才児と呼ばれる選手が存在しています。今シーズン、大宮アルディージャから川崎フロンターレに移籍した家長昭博選手もその一人です。
早熟の天才児はどんなサッカー人生を歩んで川崎フロンターレに辿り着いたのでしょうか?


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ガンバ大阪史上最高傑作と呼ばれる

家長選手は京都府長岡京市の出身。1986年生まれ。地元の長岡京サッカースポーツ少年団でサッカーを始めて、中学生になるとガンバ大阪ジュニアユースに入団しました。
天才的なサッカーセンスは小学生の時から地元では有名だったと言われています。当然ながらガンバ大阪ジュニアユースでもすぐに頭角を現します。
その類い稀なる才能にひときわ脚光が集まるのはガンバ大阪ユース時代の事でした。ガンバ大阪史上最高傑作と評されて、高校2年生の時に2種登録選手としてトップチームに昇格します。
高校3年生になり、アルビレックス新潟戦でJリーグにデビュー。そのゲームで得点をあげて、2種登録選手によるJリーグデビュー戦初得点という記録を打ち立てます。
その後すぐにガンバ大阪とプロ契約を結んで、高校生にしてJリーガーとなりました。ジュニアユースから育成されたガンバ大阪史上最高傑作選手には、嘱望された未来が開けていました。


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同じクラブに存在した似て非なる選手人生

家長選手と同様に、長岡京サッカースポーツ少年団からガンバ大阪ジュニアユース、ガンバ大阪ユース、ガンバ大阪、海外クラブという過程を踏んだ選手がいます。
その人の名前は宇佐美貴史選手。現在はブンデスリーガのFCアウクスブルクに所属しています。宇佐美選手には二人のお兄さんがいて、お兄さん二人も長岡京サッカースポーツ少年団に所属していました。
宇佐美選手が幼稚園の年長だった時に、一番上のお兄さんと同級生だった家長選手の存在を知り、その圧倒的なサッカーセンスを目の当たりにして驚愕したそうです。
後に自らも早熟の天才児と呼ばれる宇佐美選手をして尚、家長選手は驚異的な存在だったのです。
一方、家長選手と誕生日が全く同じチームメイトがガンバ大阪ジュニアユースにいました。二人は切磋琢磨してサッカーに打ち込みますが、その同級生はジュニアユースからユースに昇格することができずに、ガンバ大阪を離れる事になりました。
しかし、その後プロになり、海外でも活躍し、日本代表の中心的な存在になってしまいます。その人の名前は本田圭佑選手。現在はセリエAのACミランに所属しています。
ユースに昇格できなかった本田選手が日本代表の中心選手になり、ガンバ大阪史上最高傑作と呼ばれた天才児である家長選手は、本田選手の後塵を拝する事になってしまうというのは、人生によくある不条理であり予測不能な未来と言えるかもしれません。


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クラブのサッカーとフィットしない結果

クラブ史上最高傑作選手がトップチームと契約したというのに、ガンバ大阪は家長選手を活かす事ができないでいました。既に2005年ワールドユース日本代表として活躍し、2007年にはオシム監督に評価されてA代表にも選出されていたのにもかかわらずです。
サッカー選手のみならず、どんな分野においても、客観的な力量だけで活躍の場が与えられるとは限りません。マネージャーも人間で感情や嗜好性を全く度外視して人選を行うものとは言い切れません。この当時のガンバ大阪の西野朗監督と家長選手の相性は必ずしも芳しいとは言えませんでした。
力量があっても活躍の場がフィットしない現実。選手個人のサッカー感と監督のサッカー感との違和感。パーソナリティの違い。どれが主たる原因なのかは断定できないものの、至宝とも言える選手をジュニアユースから育てあげたのに、ガンバ大阪は家長選手の起用方法を活かせずにいたのは間違い無い事実でした。
その結果、ガンバ大阪史上最高傑作と言われた家長選手は、自らのルーツであるクラブからの移籍を決断することになるのです。
 

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レンタル先での不本意な成績

レンタル移籍という形だったとはいえ、活躍の地を求めて2008年に大分トリニータに移籍します。しかし待ち受けていたのは不幸にも怪我でした。二年在籍しますが思うような結果を残すことはできませんでした。
2010年にはセレッソ大阪にレンタル移籍します。自己最多の31試合に出場し、少ないながらも得点も自己最多の4点、アシスト10点という一定の記録残しますが、その年の暮に初の海外移籍を果たすことになりました。


by livedoorスポーツ

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