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選手時代の古巣に就任。セレッソ大阪の新監督・尹晶煥(ユン・ジョンファン)のキャリア

扇ガ谷 道房

2016/12/13 22:01

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NEWS

今シーズンのJ2で4位ながら昇格プレーオフを制してJ1に復帰したセレッソ大阪。今シーズンの大熊清監督から、来シーズンは韓国Kリーグの蔚山FCから尹晶煥(ユン・ジョンファン)監督を招聘する事が決定しました。
尹晶煥監督はJリーグのサガン鳥栖でも監督経験があると共に、選手時代はセレッソ大阪にも所属していた謂わばOBです。彼のキャリア、そして人物像に迫ります。


by J’s GOAL

韓国の伝統的サッカークラブ出身

尹晶煥監督は1973年生まれの43歳。韓国光州広域市の出身です。選手時代のポジションはMF。
1995年大学卒業と共に当時の韓国プロサッカーリーグであるスーパーリーグの油公コッキリに入団してプロサッカー選手としてのキャリアをスタートします。
韓国のプロサッカーリーグは、日本のJリーグよりも10年早く1983年に開始されました。発足当初は5チームで、その内純然たるプロのチームは2チームしか無いという、不完全な形のプロリーグでした。プロ2チームの内の一つが、尹晶煥監督の所属していた油公コッキリでした。
現在韓国プロサッカーリーグはJリーグにならいKリーグと呼ばれていて、尹晶煥監督の所属していた油公コッキリは済州ユナイテッドFCというクラブ名に変わり、Kリーグの主力クラブとして存続しています。
尹晶煥監督は油公コッキリに5年間在籍して、リーグ戦60試合に出場し8得点という記録を残し、2000年にJリーグのセレッソ大阪に移籍しました。


by CountDown2002W杯

日本の伝統あるクラブに移籍

セレッソ大阪は、元々ヤンマーディーゼルサッカー部がその母体となっている伝統あるサッカークラブです。1957年に創部されて、1965年の日本サッカーリーグ創設からリーグに参加しています。そして何よりも、日本サッカー界のスーパースター釜本邦茂さんが所属し、日本サッカー界を代表していたチームとして知られています。
尹晶煥監督はこの伝統あるチームに移籍し、海外でのサッカー人生という新たなステップに挑戦しました。
移籍した初年度、チームは1stステージ最終節まで優勝争いを演じますが、最後は最下位の川崎フロンターレに惜敗し、惜しくもステージ優勝を逃してしまいます。しかし、優勝争いをする原動力として尹晶煥監督もMFで活躍しました。
2001年には、Jリーグのオールスター戦であるJOMOカップに選出されて出場し、大会MVPを獲得しました。しかし、この年チームはJ2に降格してしまいます。翌年のWカップ日韓大会に韓国代表として出場する事を見据えて、本来は韓国に帰国する予定だったものの、チームがJ2降格してしまった事の責任を感じて残留し、翌年のJ1昇格に見事貢献したという責任感とチーム愛に溢れた選手でした。
2002年のW杯日韓大会には、セレッソ大阪から森島寛晃さん、西澤明訓さんが日本代表として選出され、尹晶煥監督も韓国代表に選出されましたが、残念ながら大会での出場機会はありませんでした。


by サッカー各国クラブユニフォーム

日本の地でサッカー選手人生を終える

日韓W杯後の2003年、チームはJ1に復帰しますが、尹晶煥監督は韓国に戻り城南一和の選手として4年振りにKリーグに復帰しました。翌年全北現代モータースに移籍し2年間在籍。
そして、どうしてもJリーグでもう一度プレイしたいという欲求が抑えきれなくなり、2006年に当時J2のサガン鳥栖に移籍しJリーグのピッチに戻って来ました。尹晶煥監督の活躍もあって、サガン鳥栖はこの年クラブ史上最高順位の4位(J2)という成績を残します。
尹晶煥監督はプロサッカー選手としてのピークをこの年サガン鳥栖で迎えました。自己のプロサッカー選手としてのシーズン最多出場記録となる41試合に出場を果たします。翌年からは出場機会が減少し、2007年にプロサッカー選手を引退します。
プロ生活13年の内、Kリーグで8年、Jリーグで5年。Jリーグ在籍の内、セレッソ大阪で3年、サガン鳥栖で2年というサッカー人生でした。


by 鳥栖市

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