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ハリルジャパンの救世主になれるか!浦和レッズ出身ヘルタ・ベルリンの原口元気選手

扇ガ谷 道房

2016/09/11 18:06

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ワールドカップアジア最終予選が始まり、ホームでの初戦UAE戦を落としてしまったハリルジャパン日本代表。
最終予選の初戦を落としたチームは過去に本大会出用を果たしていない事から、ハリルジャパンの前途を心配する声が高まった中、第二戦のアウェイのタイ戦では2対0で勝利し、瓦解しかかった日本代表は復調の兆しを示しました。
日本代表に対する不安を最初に払拭してくれたのがヘルタ・ベルリン所属のFW原口元気選手(以降、原口選手と記載)。浦和レッズの秘蔵っ子と呼ばれた天才少年は、ドイツの地でしたたかにその才能を昇華させています。その実像に迫ります。

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by Twitter@Jcom_soccer

浦和レッズの宝

多くのJリーグクラブにはクラブの宝と呼ばれる選手が存在しています。原口選手は浦和レッズのジュニアユース出身でトップチームまで順調に成長し、ブンデスリーガに巣立った優等生。浦和レッズの主力としてリーグ優勝に貢献する選手になるべく、トップチームに昇格する前から絶大なる期待をされていた選手でした。
昨年代表初ゴールを決めた時にshooty記事でも紹介されています。
トップチーム昇格前の特筆すべきハイライトは、2008年10月13日にホーム埼玉スタジアム2002で行われた高円宮杯決勝の名古屋グランパスジュニアユース戦です。
原口選手は、現在湘南ベルマーレにレンタル移籍中の山田直輝選手、ヴィッセル神戸に移籍した高橋峻希選手と共に、チーム最多の6本のシュートを放ち、得意の右足で目の覚める様な3点目を決めています。そして結果は9対1という圧勝で浦和レッズジュニアユースが優勝を果たします。筆者はスタンドでこの一戦を観戦していましたが、間違いなく将来の浦和レッズのエースになる器を示してくれた貴重な一戦でした。
翌2009年、浦和レッズはドイツ人のフォルカー・フィンケ監督が就任します。そして育成と勝利という二つのミッションを与えられたフィンケ監督は、この時のユースチームから多くの若手をトップチームに抜擢します。
その一人が、高校生だった原口選手でした。2009年開幕戦のアウェイ鹿島戦からスタメン出場を果たします。ここから浦和レッズの至宝は、トップチームで様々な経験を積む事になりました。それは苦い想い出も含めてです。

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by 浦和レッズマガジン

天才少年の苦悩

2006年にJリーグ初優勝、2007年にアジアチャンピオンズリーグ制覇、そしてクラブワールドカップに出場し世界3位になるなど、原口選手がトップチームに昇格するまでの浦和レッズはクラブ史上最も絶頂期を迎えていました。
しかし、原口選手が昇格した2009年から低落してしまいます。つまり浦和レッズの至宝は、浦和レッズ史上二度目の不調期に昇格するという不運に見舞われてしまうのです。(最初はJ2に降格した2000年)
フィンケ監督の若手起用の方針は原口選手にとっては幸運でしたが、チームは戦えど上位に進出できず、Jリーグ最強を誇る浦和レッズサポーターのフラストレーションは高まりました。
天才少年にとって、自らの能力があっても、チームが勝てない状況は歯がゆかった筈ですが、この時期に学んだ事も大きい筈です。
事実個々のプレイでは、その才能の片鱗は随所に見せてくれていました。ドリブル突破能力はユース時代からも定評がありましたし、左サイドからカットインして右足で豪快に放つシュートも観戦の楽しみの一つでした。
しかし、チームは勝てない。出場できる環境にいながら、チームが勝てないもどかしさという、複雑な精神状態を経験することになります。
意気盛んな天才少年は、時として監督の采配にも不満の様子をスタジアムで見せていました。特に交代させられる事に対する苛立ちはよく目にしました。自他共に才能を知られた選手であるだけに、戦術による交代にも、若さ故に納得できなかったのでしょう。
浦和の至宝は、様々な経験をしていきます。それでも埼玉スタジアム2002の浦和レッズサポーターは、浦和の至宝の成長を見守り、大歓声で応援をしました。その事も胸に刻まれた筈です。

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by URAWA RED DIAMONDS

ロンドンオリンピックの挫折感

育成年代から注目選手であった原口選手はU16時代から日本代表に選出されています。
2012年のロンドンオリンピックの時には、アジア最終予選のメンバーとして名を連ねながら、オリンピック代表の選考には入る事ができませんでした。
各年代の代表に選出されていたにもかかわらず、この世代では最も出場したかった筈のオリンピックメンバーに選ばれず、悔しい想いを経験しました。
ロンドンオリンピック日本代表メンバーが発表されて最初のリーグ戦となった2012年第17節のサガン鳥栖戦では、選考されなかった悔しさを払拭する様にどしゃぶりの雨の埼玉スタジアム2002で原口選手は2ゴールを決めます。
1点目のゴールが象徴的でした。右サイドを駆け上がり右足を振りぬいてファーサイドに決めます。原口選手は号泣していました。そしてそれがロンドンオリンピックに選考されなかった悔しさだと浦和レッズのサポーターは知っていました。北ゴール裏からは原口選手のチャントが鳴りやみませんでした。素晴らしい光景でした。

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by スポーツナビ

浦和レッズの先輩が所属するドイツのクラブへ

2013年、原口選手はシーズンを通して初めての二ケタ得点11点を記録します。
翌年の2014年には、背番号24番から長らく浦和レッズで欠番となっていたエースナンバーの背番号9番を背負います。
背番号10番11番と共に、サッカーの世界ではエースナンバーである背番号9番が、永井雄一郎選手(現ザスパ草津所属)の移籍後長らく不在だったのは不思議な事でした。しかし、早くから将来を嘱望されていた浦和レッズの至宝である原口選手がつけるべく、周到に用意されていたかの様でした。
浦和レッズの背番号9番が待ち望んでいた若きエースの原口選手は、その背番号を背負って間もなく海外移籍を決めてしまいます。移籍先は浦和レッズの先輩である当時日本代表ミッドフィルダーの細貝萌選手の所属するドイツ・ブンデスリーガのヘルタ・ベルリンでした。
実は2008年の時点で、ブンデスリーガの世界最高峰クラブであるバイエルン・ミュンヘンから、原口選手に対して練習生としてのオファーがありました。しかしながら、世界的最高峰クラブであるが故に、トップチームに昇格したばかりの日本の高校生の育成の成否を案じた浦和レッズは、バイエルン・ミュンヘンへの移籍を拒否していました。
ジュニアユースからの生え抜き選手で、浦和レッズの将来を託す逸材を、危険な賭けにさらしたくなかったのだと思われます。
しかし、本人の海外志向は2014年時点で、後ろ髪ひかれる気持ちを上回ってしまいました。原口選手の後ろ髪は、浦和レッズの生え抜き選手でありながら、Jリーグ優勝を成し遂げずに海外移籍を決めた事にありました。それでも契約満了での移籍ではなく、移籍金が浦和レッズに支払われる形での移籍だったことが、古巣に対するせめてもの恩返しだった様です。

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by まとめまとめ

プレイスタイルの幅を広げたドイツでの経験

2014年ブンデスリーガの開幕戦、原口選手は先輩の細貝選手と共にスタメンとしてブレーメン戦に出場を果たします。2得点に絡む活躍で、上々のブンデスリーガデビューを飾ったかに見えました。
ところがゲーム終了間際に、相手の激しいタックルに遭って、左肩からピッチに落ちてしまい、その後ゲームに出場できなくなってしまいました。結局2014年シーズンは21試合出場1ゴール。
翌2015年シーズンは32試合出場2得点。ゴール数だけみると余り活躍していない様に見えますが、実はチームにも個人的にも良い影響がもたらされています。
元々左サイドハーフもしくは左シャドーが定位置で、ドリブル突破が得意で、左からのカットインシュートに定評のあった原口選手ですが、ヘルタ・ベルリンに加入後のプレイスタイルは、少しずつ変化を余儀なくされました。
それはチーム事情によるところが大きいのですが、ヘルタ・ベルリンはチームコンセプトが守備力を重視したチームで、チーム全員が献身的に守備をこなします。その為左サイドバックのポジションまで下がっての守備も求められることから、浦和レッズ時代とは違い格段の走力が必要になりました。
必然的に走力強化に努めなければならず、球際の競り合いにも負けないフィジカル対応力も必要になりました。守備をおろそかにしていた訳ではありませんが、浦和レッズ時代には考えられない程、ピッチを駆け回り、相手を追い回すプレイスタイルが身についています。
昨年は827回のスプリントを記録し、ブンデスリーガで5位の成績を残している程、原口選手は走る選手に変貌しているのです。

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by JAPAN STARS INFO.

ワールドカップ出場という夢の実現

U16から各年代の日本代表選手だったにもかかわらず、原口選手はロンドンオリンピックとブラジルワールドカップへの出場は叶いませんでした。
二つの大きな世界大会への出場の夢は、敗れた過去の出来事ですが、次のロシアワールドカップには必ず出場するという強い信念を感じます。ですから、アジア最終予選に召集された原口選手のモチベーションは高まっていると感じます。
慣れ親しんだ埼玉スタジアム2002での初戦UAE戦に出場機会はありませんでしたが、二戦目となったアウェイでのタイ戦ではスタメンで左シャドーのポジションで出場を果たしました。
ハリルジャパンでの起用は途中出場かつボランチという不慣れなポジションでの起用が多く、原口選手の特徴が決して活かされているとは思えませんでしたが、タイ戦では本来の左シャドーのポジションが与えられたので、得点の可能性を感じていました。
ゲーム前の入場時の表情は、浦和レッズ時代からは見違える程に落ち着き払い、秘めたる闘争心を感じる表情が伺えたので、必ず得点する筈と思っていたとおり、勝利を呼び込む先制点をヘディングで決めてくれました。
初戦を敗退したハリルジャパンでしたから、二戦目となるタイ戦をも敗退していたら、監督更迭論もささやかれていた状態でしたから、原口選手が前半18分に決めた先制点は、大きな得点でした。日本代表として出場した大会で、初めての重要なゴールとなったのです。
最終予選はあと8戦。この一点のお陰で、原口選手の今後の継続起用の可能性が高まったと言えます。ワールドカップ出場に向けた本当の闘いは始まったばかりです。

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by SAMURAI Footballers

ヘルタ・ベルリンへの移籍で一皮むけた原口選手は、今度も進化を遂げて、必ずやロシアワールドカップのピッチに立っていることでしょう。
間違いなくこれからの日本代表にとって最注目選手です。

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