Shooty

海外プロリーグへ挑戦し続ける男・菊池康平さんインタビュー 前編

編集部

2015/09/25 18:30

2015/10/11 21:14

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Shootyのインタビュー企画がスタートです。記念すべき第1回のゲストには、働きながら海外のプロリーグへの挑戦を続ける、元ボリビアのプロサッカー選手・菊池康平さん。

菊池さんは、大学1年生の時から海外リーグのプロ選手になるべくアジアを中心に挑戦を続け、その数なんと15ヶ国にのぼります。2008年には遂に南米・ボリビアでプロ契約を勝ち取ることに成功されました。
(挑戦した15ヶ国は順に、シンガポール・香港・オーストラリア・タイ・マレーシア・ブルネイ・モルジブ・マカオ・ベトナム・カンボジア・フィジー・パラグアイ・ボリビア・インド・ラオス。複数回挑戦した国もあり)

なにが菊池さんをそこまで突き動かし、これまでどのような過酷な環境を乗り越え、挑戦を続けてきたのか。また、今後の菊池さんの活躍の方向性についても迫っていきたいと思います。

– そもそも海外リーグへの挑戦を始めたきっかけについて、教えてください。

高校3年生の秋にたまたま地元でシンガポールリーグのトライアウトがあるのをサッカー雑誌で知って受けに行ったんですが、そこにはJリーグとかJFLで経験のある選手が同じように受けに来ていました。結果はダメだったんですが、シンガポールリーグなんてあるんだという発見がありました。2000年だったと思います。

翌年大学に入学し最初の夏に、早速シンガポールリーグに挑戦しに行きました。しかし、結果は上手くいきませんでした。挑戦のコーディネートをしてくれた業者が密な対応とは言えませんでした。はじめユースチームのようなところに入れられ、わざわざ外国人として来てユースにいても意味がなく、トップチームで活躍しないとプロ契約できないので、自分で監督に話して、「埒があかないからトップに入れてくれ」とお願いしたら、入れてくれました。このとき、自分で英語さえできれば業者に頼らなくてもいけるんじゃないかと思いました。

アルビS:練習試合
シンガポールでの練習試合

また、そのときブラジル人やらクロアチア人やらナイジェリア人やら色々な外国人選手と話している中で、シンガポールだけではなく香港、タイ、インドなど色々な国にプロリーグがあることを知り、彼らから「お前はまだ若いし、諦めないで色々挑戦してみなよ」と言われ、ものすごい視野が広がった気がしたんです。

当時メジャーでない海外リーグに関する情報なんて全然ありませんでしたが、実際に行くことで情報を得ることができましたし、Jリーグよりは門戸が広く、英語さえできれば練習参加くらいはできそうだという感触をつかめたのは大きかったですね。ただ、そのときは結局プロ契約を勝ち取れず、一方でシンガポールでプロ契約している日本人の選手もいて、そういう選手が出てる試合を観て、悔しい思いをしました。

そのとき「いつか自分も絶対ピッチに立つぞ」という目標を持ちました。2,000〜3,000人しか入らないピッチであっても、埋まると結構華やかなんです。その後、プロ契約するという一つの目標はボリビアで達成できましたが、まだたくさんお客さんが入った試合でプレイをするという目標は達成できていないんです。

– 海外ではサッカー選手が国をまたいでリーグを転々とするのは割と普通なんでしょうか?

普通だと思いますね。ブラジルやナイジェリア、カメルーン、ユーゴ、クロアチアといった国の選手は割と色々な国にいたと記憶しています。「あっ、お前以前どこか別の国で会ったな」と思わぬ再会をすることもありました。

多分彼らは自国のリーグの給料が安いため、例えばアフリカ系の選手だったらアジア人にはない身体能力の高さを活かすことができて重宝されるので、高い給料を出稼ぎに来ていたと思います。ブラジル人でも国内だとレベルが高く厳しいので、アジアに流れて来ていた人も結構いると思いますね。

プノンペン 316
プノンペンにて。サッカーを通じて様々な出会いがある

– 菊池さんとサッカーの関係について、もう少し遡らせてください。高校3年生の時にシンガポールリーグと出会うまでのサッカーとの関係について教えてください。

1番初めは、私自身は記憶はないんですが、幼稚園の頃にサッカーのユニフォームを見て格好良いと思って、「ボールを蹴らせて」と親にお願いしたみたいです。そこで初めてボールを蹴って、小学生になってからは休み時間とかに遊びでサッカーをするようになって、周りは当然サッカーなんてやったことなかった一方で、自分は少しだけ幼稚園のときにボールを蹴っていたということもあり、他の子よりちょっと上手くできたんだと思います。そのとき、上手くできたからこそ、好きになったんでしょうね。それで、5年生くらいで地元のチームに入り、中学校ではサッカー部に入りました。

中学2年生のときに視力が落ちてきて、ストレスを感じるようになり、足が速かったこともあって一度サッカー部から陸上部に移りました。でも、やっぱりサッカーがやりたくなって、クラブチームを探して入りました。これが一番最初に自分で行動してチームを探してアプローチをするという経験でした。元Jリーガーが教えてくれるという当時できたばかりのチームだったんですが、ここではじめてサッカーというスポーツについてやトレーニング方法をちゃんと学んだ気がします。

– シンガポールリーグにチャレンジするまではJリーグを目指していたんでしょうか?

そうですね。1993年にJリーグが開幕してからは、Jリーガーになりたいと思っていました。中学3年生のときにはヴェルディやらマリノスやら6チームくらいJリーグのクラブのユースチームを受けていましたがなかなか合格できず、最後にFC町田ユース、現在のFC町田ゼルビアの前身のチームに拾ってもらえました。技術はありませんでしたが、短距離走の項目があって救われたみたいです。

ただ結局レベルが高く、1年間試合に出れなくて、「このまま終わっちゃうかもしれない」と思って、また自分でチームを探しました。柏レイソル青梅というチームに電話したら、セレクションの時期は既に終わっていたんですが練習参加が許されて、そのままユースに入れてもらうことができました。

– 行動すれば何かしら突破口があるということは、早い時期から学んでいたということなんですね。
普通ならどうアプローチしていいかわからないし、諦めちゃうことが多いような気もします。

実は、中学2年生のときに1ヶ月くらい学校を休んでいた時期があるんです。陸上部へ浮気したくらいの頃ですね。将来への不安とか迷いがあって、「自分は本当は何がしたいんだ?」と考えていたときに、三浦知良選手みたいに強くなりたいと思ったんです。15歳で単身でブラジルに行って、プロになって、スターになった。このとき、カズ選手への憧れからか“海外挑戦”という想いが植えつけられたのかもしれません。

それで、やっぱりサッカーをしたいと思ったんです。ここが自分の挑戦の原点だと思います。友達に「サッカーやろうぜ。学校に来いよ。」と誘われ、再びサッカーをプレイすることを通じてちゃんと立ち直れたので、本当にサッカーに救われたと感謝しています。

⑯ラオス:プロミス - コピー
サッカーをやっていなければ、ラオスに来ることもなかったかもしれない

– 菊池さんは中学受験をされていて、大学も明治大学に進まれてることを踏まえると、ご家庭としては教育熱心だったんじゃないでしょうか?学業との折り合いはどうされていたのでしょうか?

おっしゃるとおりで、今考えると教育熱心な家庭だったと思います。正直言って、中学受験も自分がしたかったわけではなく、サッカーが一番やりたかった時期に、塾に行かされることでサッカーを制限されたり、やりきれない想いが当時はありました。高校に入ってからも大学進学を考えなくてはいけなくなって、附属の高校だったのですが学内の成績がそれなりに良くないと内部進学できないシステムで、親からはその基準を満たさないとユースは辞めさせると言われていました。

そういうこともあって、高校3年生のときにクラブチームから学校の部活に戻りました。人から見ると破天荒な人生を歩んでいるように映るかもしれませんが、その源は教育熱心な家庭に育った反動からかもしれません。

今となっては、もちろん親には感謝していますが、当時は勉強させられているという気持ちもあって、「世界を見たい」「冒険したい」という想いが出てきたんだと思います。そういった想いと、中学2年生の頃の学校に行かなかった時期にカズ選手の生き方を詳しく知ったことがリンクして、挑戦する想いが湧き出てきたんだと思っています。

– 親御さんもどこかのタイミングで自分たちがこれ以上は踏み込むのは止めようと判断すると思うのですが、それはいつくらいから感じましたか?

ちょっと変わったのは、高校でFC町田ユースに入ったり、自分で柏レイソル青梅に移籍したあたりでしょうか。決定的に変わったのは、大学入ってからですね。

大学1年生の夏にシンガポールに挑戦したときは、「大丈夫なのか?」と心配されましたが、2か国目の香港、その後のオーストラリアのときはもう何も言いませんでしたね。このときは応援してくれていたと思います。

プノンペン 227
プノンペンにて。誰かの人生を生きているわけじゃない。自分の人生を生きているんだ

– 就職を考えなくてはならない時期には、自分の将来についてどう考えていましたか?

当時は、大学を卒業してすぐ就職という普通の波には乗りたくありませんでした。色々な世界を見てきて価値観に変化が生まれ「そうじゃなくてもいいんじゃないか?」という気持ちがありましたね。卒業後2年くらいはワーキングホリデーなどで海外で働きながら、海外リーグにチャレンジして、ダメだったら諦めて就職しようかと思っていました。

ただ、大学3年生の就活の時期に親や周りの人から「サッカーに逃げている」みたいなことを言われたんですね。「そうじゃない。就職できる自信はあるけど、どうしてもサッカーをやりたいからギリギリまでチャレンジしたい」と話したんですが、就職できることを示すために就活もすることにしました。

当初はやりたいことが分からなかったので、色々な会社を見ようと海外で培った飛び込み根性で80社くらい業種もバラバラで受けまくっていました。一貫性や熱がないことを悟られたんでしょうね。次から次へと落ちて、さすがにそんなに世の中甘いもんじゃないなということを学びました笑。なんとかパソナから内定を頂くことができ、パソナは社長の話も面白かったし、内定者が海外でボランティアをやってたり、NPOをやってたり、何となく自分と近いというか、面白い人が多かったんです。

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現在もパソナに籍をおいており、様々な活動をしている

内定式の前日までタイ、卒業式の前日までマレーシアでチャレンジはしていたんですが、それでもダメだったので良い仲間もいましたし、まずは働いてみようと考えました。

– もし入社前に海外挑戦で良い結果が出ていたら、働いてなかったですか?

そう思いますが、どうでしょうか。変に社会性を持ち始めていたこともあって、もし3万円とか5万円の給料だったら分からないですね、今となっては。

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