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Jリーグ開幕から25年、最も成功したクラブは?~Jクラブ5球団を渡り歩いて~ 〈長岡 茂 氏インタビューvol.1〉

勝村大輔

2017/10/08 22:00

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長岡 茂 氏との対談が実現した日は、2ヶ月ほど前までに遡る。

対談に至るきっかけは、ノンフィクションライター宇都宮 徹壱 氏の新刊『J2 J3 フットボール漫遊記』(東方出版)出版記念イベントに参加した時のことだった。

この日のテーマは『自治体とスタジアム』長岡氏はゲストスピーカーとして登壇していた。

長岡氏は、鹿島アントラーズ、アルビレックス新潟、湘南ベルマーレ、サガン鳥栖、ギラヴァンツ北九州、5つのJリーグクラブを、リーグ黎明期から長きに渡り、裏方として携わっておられ、さらに、2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会、W杯茨城会場の運営責任者を歴任するなど、日本サッカー界を支え続けている重鎮として知られている方である。

長岡氏が、この日のトークセッションで語っていたのは、東京における競技施設の現状だった。東京都には多くのクラブがあり、最も人口が多いのにもかかわらず、J1仕様のスタジアムが一つしかないこと。だからといって、ただスタジアムを作ればいいという問題ではないと持論を展開した。

昨年新設されたG大阪の本拠地「市立吹田サッカースタジアム」、今年1月に完成したギラヴァンツ北九州の「ミクニワールドスタジアム北九州」そして、完成予定の京都サンガの新スタジアムなど、専スタ(サッカー専用スタジアム)ブームの到来に警笛を鳴らす一人の識者でもある。

必ずしも競技専用である必要はない、行政に頼りきりではなく、民間が作り、商業利用可能な施設であるべき。

こうした持論の背景には、5つのJクラブに携わってきた経験、特に大きく影響しているのは、Jリーグ黎明期における鹿島アントラーズでの奮闘であったと長岡氏は振り返る。

長岡氏との対談はゆうに2時間を超えた。日本サッカーのこれまでの25年を振り返ると共に、これからの25年を創造する。当ウェブサイトでは、ロングインタビューの詳細を数回に分けてお届けしたい。まず、はじめにお届けするのは「鹿島アントラーズ創設の軌跡」である。

「Jリーグ開幕から25年、最も成功したクラブは鹿島アントラーズに他ならない。この成功モデルは、後出のクラブの希望になった。」こう語る長岡氏に、その理由を伺ってみた。

鹿島アントラーズは後出クラブの希望

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——Jリーグ開幕から25年が経ちました。長岡さんはこの25年間で最も成功したクラブに鹿島アントラーズの名を挙げていますが、その理由をお聞かせください。

(長岡)Jリーグ創設から25年間で、一番多くのタイトルを獲得していますからね。開幕当初は、10チーム中の10番目の立ち位置だったことを考えると、私にとって一番の驚きでした。

——10チーム中10番とは、どういう意味なのでしょうか。

(長岡)Jリーグ開幕に顔を揃えた10チームにおいて、最後に参入が決まったという意味です。鹿島アントラーズのJリーグ参入を決定付けたのは、県立カシマサッカースタジアムの建設でした。当時の陳情には、専用スタジアムがあれば検討の余地はあるというニュアンスが込められていました。つまり、Jリーグ入りは諦めなさいということ。最後通告とも取れる内容でしたが、鹿島側の解釈は違いました。Jリーグ入りへのラストパスだと。

鹿島臨海地域をはじめ、当時でいう鹿島町(現鹿嶋市)、神栖町(現神栖市)、潮来町(現潮来市)、波崎町(現神栖市)、大野村(現鹿嶋市)、茨城県も含めた大規模なプロジェクトでしたが、タイムリミットという制限が後押しし、大英断に至りました。本来なら、さまざまな手順や時間を要するところですが、タイミングに恵まれ、滑り込むことができたことに間違いはないですね。

——鹿島アントラーズが辿ってきた道のり、成功に至る要因をお聞かせください。

(長岡)鹿島アントラーズこそ、Jリーグの理念を実際の形にした21世紀型のサッカークラブだと自負しています。まず、屋根が全スタンドに付いていて、個席で観戦できる、サッカー専用スタジアムがあること。そして、当時は、企業名を外したくないというチームがありましたが、アントラーズには、そのようなエゴは最初からありませんでした。サッカーを生かして地域を活性化させたいという大義がありました。それに、いきなり93年の1stステージで優勝したことが大きかったですね。小さな町でもできる、このモデルケースは後出のクラブの希望になったのではないでしょうか。

2002年日韓W杯の追い風

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——2002年、日韓W杯の開催地になったことも、隆盛の要因に挙げられるのではないでしょうか。

(長岡)そうですね。当初からJリーグ入りを果たすだけではなく、2002年日韓ワールドカップの開催地に名乗りを上げるというビジョンがありました。1万5000人収容のスタジアムを作るだけでも驚きでしたが、ワールドカップをも目指している。クラブのビジョンに、はじめこそ度肝を抜かれましたが、Jリーグが始まり、アメリカワールドカップの視察を終えて、「やれるのではないか!という前向きな気持ちが芽生えました。

1996年の12月にカシマが正式に開催地になり、スタジアムの増築が決まりました。デザインの美しさや観戦のし易さ、93年にスタートして、皆様から評価していただいたスタジアム、そのグレードを下げてはいけないという想いがありましたので、茨城県の方にも随分苦心していただいて、携わる方々が一つのチームとなり、尽力していただいたことが、とてもありがたかったですね。

——1999年、リーマンショックをきっかけに拡がった金融危機は、日本サッカー界にも大きな影を落とし、消滅に追い込まれたクラブや、経営危機に陥ったクラブも多くありました。こういった状況においても力強く歩み続けることができた鹿島アントラーズですが、どのような要因があったと考えられますか。

(長岡)アントラーズの場合は、基本的に住金(住友金属、現新日鐵住金)が親会社という形でした。住金あってこそという部分は当然ありますが、幸いにもチームが、ずっと優勝争いしてくれたことや、そこに対して親会社の方からも随分と資金協力をしていただいて、94年以降からレオナルドが来て、ジョルジーニョが来て、ビスマルクも来ました。チームのクオリティを下げないように、親会社をはじめ、リクシル(当時のトステム)、イエローハットなど、パートナーの方々が長きに渡りご支援いただいていることが大きいですね。

——確かに、長いですよね。

(長岡)長いですよ。トステムはリーグ2年目(94年)からですし、イエローハットは92年からやっていただいている。パートナーが付いてきてくれる要因には、やはり、アントラーズが示しているコンセプトが明確だから、そこにブレが生じないことが強みなのではないかと思います。

——そして、やはりジーコの存在は大きかったのではないでしょうか。

(長岡)もちろんそれもありますし、メンバーも素晴らしかった。チームのために汗をかけるような選手がいてくれたからこそ、良い結果が出たと思います。ただ単純にネームバリューだけではなく、宮本(征勝初代監督)さんいてジーコがいて、そこに石井(正忠)、本田(泰人)をはじめ、宮本さんと共に移籍してきた選手たちがいる。紡がれた共通の意識が、このチームの歴史を作っています。はじめから順風満帆ではありませんでしたけど、各々がエゴを出さずに、身を粉にしてチームのために行動してくれたことが大きかったですね。

——世界のトレンドや監督により、目指すサッカーが変わるのが一般的かと思われますが、それに対して、アントラーズには一本筋の通った伝統が受け継がれている印象があります。

(長岡)Jリーグ開幕から、基本線4・4・2のスタイルのサッカーを25年間続けているので、イメージし易いですよね。両サイドバックは高い位置を取っていて、中盤は基本4枚、2人がセンターで、サイドハーフがいる。台形のような形を大きく変えることはないですね。多少のオプションはあるにしても。

地域から選手を輩出したい。

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——育成という話題に移っていきたいのですが、鹿島アントラーズが辿ってきた道のり、選手育成の考え方を教えていただけないでしょうか。

(長岡)今でこそ全国から、アントラーズでプロになりたいという子供たちが集まってきますが、当初は難しかったですね。当時は、地元の鹿島学園高校や鹿島高校もまだ強くなかった。だから、鹿行地域(旧行方郡と鹿島郡を合わせた地域)の子たちは、水戸商業高校などの強豪校のある水戸に行ってしまう子がほとんどでした。

ですが、地域のチームを強くしていこうという動きが活発になってきて、ジュニア、ジュニアユースの子たちが、一生懸命上を目指そうという雰囲気になってきました。それでもやはり、クラブで抱えられる選手には限りがありますので、ユースに上がれなかった子が、地元の鹿島学園高校とか鹿島高校に行ってプレーを続けています。

そうするとその子たちが、今度は選手権に出て、大学に進学したり、場合によっては、アントラーズに戻ってくるケースもあったり、次第に地域・学校との協力関係が出来上がってきました。

鹿島学園には寮があるので、越境でアントラーズに入団した子たちを受け入れてもらったり、トップチームの練習に協力していただいたり、またジュニアユースの子たちが、ユースに上がれなかった時の進路として、選手権の常連となっている鹿島学園を選んでいます。

——鹿島アントラーズが中心となって育んだ、学校との協力体制、地域との一体感が生まれたことで、育成環境が向上しているのですね、そんな中、2013年にJ3が発足し、G大阪、C大阪、FC東京がU23を結成しリーグに参戦する中、鹿島アントラーズは、どういった立ち位置で育成を追い進めているのか、お聞かせください。

(長岡)アントラーズに関しては、これから先ですよね。それこそユースレベルでも、このカテゴリーでやらせるのはもったいない、早く上を経験させたいというところで、U23というカテゴリーがありますが、それはすごく有り難い部分ではありますよね。

FC東京、G大阪、C大阪、そういったチームを持てることは、すごいアドバンテージにはなります。しかし、その反面、コストの問題が浮上してきますよね。鹿島は大都市と比べて人口の絶対数が違いますし、越境で来る子を拒むわけではありませんが、願わくば、地元の子たちを育てたいというところもあります。

25年前(Jリーグ開幕当初)は、U23はなかったですし、それこそJ3ができるとは夢にも思わなかったですしね。そういう意味ではこの25年間で、Jリーグのシステムが変わってきて、その中でそれぞれの地域によって、身の丈に合ったやり方がある。アントラーズ以外にも、例えばF・マリノスとか、ヴェルディだってずっと育成の部分は長けているじゃないですか。それでも彼らはU23を持たない。

U23を持つより、ユースからトップに上がれるか上がれないかという段階で、線引きをはっきりする。トップに入れられないのであれば、他チームのトレーニングに参加させてもらうとか、期限付き移籍という選択肢を提示するけれども、U23を持っているチームは、もう少し手元に置いて育てながら選手の将来性を見届けることができる。

だから、U23を持つことが良い悪いではなく、持てるのであれば持ちたいですよね。例えばバルサ(FCバルセロナ)だってBチームもあるわけだし、できる限り高いレベルで試合を経験させて、尚且つそれが自分たちのチームであるということが一番の理想なのでしょうけど。

——コスト的な問題がある難しさは、よくわかりました。そう考えた場合、浦和レッズは、資金も豊富ですし、規模も大きい。この25年間で、アントラーズに並んで最も成功したクラブの一つに挙げられると思いますが、なぜU23を持たないのでしょうか。

(長岡)レッズに関してですが、若手を育てるより、完成した選手達を集めて、優勝争いに加わることを目指しているように見えますね。だからU23を保つ必要がないと思います。あくまでも傍目から見て、いちサッカーファンとして思うのは、やはり、Jの他チームで、浦和以外のチームで浦和出身の子が活躍しているという現実がありますよね。

例えば、浦和ユース出身とか、トップチームに絡んでいて、そこから移籍したというのなら理解できますが、結構早い段階で、他地域に流れてしまっている。

浦和サポーターの人とお話をすると、「ウチは浦和出身の選手に、よく点を決められるんだよね。」と、冗談をほのめかしたりしていますが、実際に他チームで活躍できるタレントがいることは事実ですし、そこにきちんとアプローチしているのかが大きな問題だと思います。

地元出身の子は、なぜ地元のチームでプレーをしないのか。とても残念ですよね。子供たちが、「目指しているサッカーのスタイル違うから」という理由ならば仕方はないと思いますが、それであっても、それ以上に「ボクは絶対に赤いユニフォームを着てプレーしたい!」という声が、もっとあって欲しい。サッカーが盛んな地域だけに残念ですね。

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——鹿島アントラーズをはじめ、長岡さんは、長年をかけて、いろんなクラブを渡り歩いてきましたけど、他のクラブに無く、アントラーズだけにある強みは何ですかね。

(長岡)オリジナル10からスタートした25年間という経験です。その中でトップチームが常に優勝争いするポジションにいること。これは育成という面においても、子供たちに与える影響は大きいですね。

そして、私がいた時のところでお話させてもらうと、アントラーズは新しいことにチャレンジすることに積極的です。それは、先を行っているチームを追いつけ追い越せというところでスタートしましたから、先導のチームと同じことをやっていては、追いつけません。

常に独自路線を歩んできました。新しい試みに対して、一般的な会社などでは、なかなか許されないという話はよく聞きますが、アントラーズの強みは、そういった積極的な姿勢を歓迎する風土があります。それが伝統でありアントラーズの強みではないでしょうか。

——本日はお忙しい中、ありがとうございました。

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長岡茂(ながおか・しげる)
Espoir Sport株式会社代表取締役。鹿島アントラーズ、アルビレックス新潟、湘南ベルマーレ、サガン鳥栖、ギラヴァンツ北九州と5つのJリーグクラブに従事。FIFAワールドカップ日本組織委員、茨城会場の運営責任者を歴任。2017年、スペリオ城北(東京都2部)スーパーバイザーに就任。

今回のインタビュアー勝村大輔氏のサイトでインタビュー後記を掲載しておりますので、そちらもご閲覧くださいませ。

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